ヌーラ・エラカート来日講演報告集

附・勝俣誠「反アパルトヘイト運動とボイコット」

2018年12月14日-16日
(2020年12月30日 公開)

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まえがき

 本冊子は、2018年12月に、BDS japanおよび多田謠子反権力人権基金の招きで来日した、ジョージ・メイソン大学准教授(現在はラトガース大学准教授)のヌーラ・エラカートさんが大阪と東京で行った3つの講演の記録集です。

 エラカートさんは、国際人権・人道法の研究者であると同時に、「対イスラエル学術文化ボイコット・キャンペーン」(PACBI)の諮問委員を務めるなど、BDS(ボイコット・資本引揚げ・制裁)運動のスポークスパーソンとしても活発に活動し、CNN、MSNBC、Fox Newsなど主要ニュースメディアでコメンテーターとして発言されています。このBDS運動を牽引するパレスチナBDS民族評議会(BNC)が2018年度の多田謠子反権力人権賞の受賞団体として選ばれ、同評議会を代表するかたちで来日されることになりました。

 日本滞在中、エラカートさんは、「BDS japan発足集会 in 関西」(12月14日、通訳・佐藤愛)、多田謠子反権力人権賞受賞発表会(12月15日、通訳・高橋宗瑠)、「BDS japan発足集会(東京)」(12月16日、通訳・高橋和夫)と、三日連続で講演をされました。ハードスケジュールにもかかわらず、それぞれの講演会で異なるテーマ(エルサレム、ガザ、難民)について話をされました。なお、12月16日の集会では、反アパルトヘイト運動に深く関わっておられた勝俣誠さん(明治学院大学名誉教授)にも講演をいただいており、本報告集の最後にその内容を掲載させていただきました。

 この時期のパレスチナ情勢は、トランプ政権による「世紀のディール」の方向性が徐々に明らかにされ、それに対する抗議の意味をもつ「帰還大行進」がガザで厳しい弾圧を受けている状況でした。また、各国のイスラエル・ロビーによるBDS運動に対する攻撃も強まっていました。こうしたパレスチナ人の苦境は、オスロ合意において前提とされていたはずの二国家解決の可能性が閉ざされてしまったという現実を反映するものと考えられますが、日本におけるメディア・識者の論調の多くはそうした変化に追いついているとは決していえない状況でした。エラカートさんの講演は、このような現在にまで続く厳しいパレスチナ情勢に対して、草の根の解放運動・連帯運動との関わりの中で鍛えられてきたオルタナティブな問題認識を提示するものでした。

 BDS運動は、2005年7月に170以上のパレスチナ人の市民組織が、様々な政治的・地理的な違いを超え連名で発した、イスラエルに対する国際的圧力の強化を訴える呼びかけを契機として始まりました。それは、オスロ合意以降、死に体となっていたアラブ・ボイコットに代わり、①国際人権・人道法の理念をベースとし、②草の根の市民による非暴力直接行動を通じて、③占領の終結・アパルトヘイト政策の廃絶・難民の帰還権実現を訴える、というものです。

 この運動は、2010年頃より国際的に急速な広がりを見せ、日本でも各地でBDSの呼びかけに呼応する取組みが行われてきました。2010年に発表された「無印良品」のイスラエル進出を半年ほどの抗議運動の結果、撤回させたことは、日本におけるBDS運動の最初の重要な成果でした。その後も「ソーダストリーム」や「イスラエルワイン」など、入植地製品を主な対象に、ボイコット・キャンペーンが、BNCや国内外の市民運動との連携の下で行われてきました。

 そうした中で全国的なネットワークを作ろうという機運が次第に高まり、2018年の初頭より、各地の運動体・活動家が集まり、「BDS japan準備会(相談会)」が数度にわたり開かれるようになりました。そのプロセスで、2018年度の多田謠子反権力人権賞の候補にBNCを推薦するということも行われました。同年12月にはBDS japan発足集会を東京と大阪で開催することになり、さらにBNCの人権賞受賞決定も重なり、ヌーラ・エラカートさんの連続講演が実現する運びとなりました。

 なお、発足集会後、BDS japanは、入植地のサッカーチームを支援するPUMAに対するボイコット要請や、ロックバンドBorisのテルアビブ公演中止要請などの行動を行ってきましたが、バックグラウンドの異なる人々・団体の寄り合い所帯でありながら、メールのみのコミュニケーションで物ごとを決定していくことの限界もあり、2020年7月に解散し、地域や活動形態に応じていくつかのグループ(BDS Tokyo、BDS関西、BDS Japan Bulletin)に再編成されるかたちで現在に至っています。BDS japanというわずか2年足らずのプロジェクトは日本における市民運動の成熟度を問う取組みであったようにも思います。

 本報告集は、もともとはBDS japanとして作製する予定だったものですが、同団体の解散に伴い、残金・残務の清算組織を兼ねるかたちで「ヌーラ・エラカート来日講演報告集編集チーム」が立ち上げられ、役重善洋・法貴潤子・岡田剛士・杉原浩司が主にその責を担い、かたちにしたものです。3つの講演の音声記録から日本語訳を作成する作業は、翻訳家であり、大阪講演の通訳を担っていただいていた佐藤愛さんに委託しました。最終的な文言の調整や編集、レイアウトは「編集チーム」が行いました(ウェブ版作製は外注しました)。

 内容についてはできるだけ、ヌーラ・エラカートさんの講演内容を忠実に再現することを心掛けましたが、読みやすさ、理解しやすさを重視し、翻訳者・編集者の判断でやや強めの意訳や言葉の補充を行っている箇所も少なからずあります。したがって、ヌーラさんの講演内容に関する責任は「編集チーム」が負うものとします。写真・図表は、講演会場で撮影したものを除き、いずれもエラカートさんが講演で用いたスライドから使わせていただきました。また、勝俣誠さんの講演については、本人から講演原稿をいただき、そのまま掲載するというかたちにさせていただきました。

 なお、大阪および東京での「BDS japan発足集会」については、インターネットでの視聴が可能となっています。

 最後に、ヌーラ・エラカートさんの招聘を含め、BDS japanの活動にご支援いただいた皆さん、多田謠子反権力人権基金事務局の皆さん、ヌーラ・エラカートさん、勝俣誠さん、他、本報告集作製にご協力いただいた全ての皆様方に深く御礼申し上げます。

2020年12月30日

ヌーラ・エラカート来日講演報告集編集チーム一同

トランプ政権のエルサレム首都承認と国際法

ヌーラ・エラカート
ラトガース大学准教授。弁護士。専門は国際人権・人道法など。学術誌Journal for Palestine Studies編集委員。Al-Shabaka(パレスチナ政策ネットワーク)顧問。「対イスラエル学術文化ボイコット・キャンペーン」助言委員。著書にJustice for Some : Law and the Question of Palestine (Stanford University Press, 2019) など。

BDS japan 発足集会 in 関西「パレスチナの平和のために日本でできること」
2018年12月14日 於・エルおおさか 通訳・佐藤愛

 こんにちは、そしてありがとうございます。ここに来てまだ間もないのですが、すでに心動かされる経験をしています。先ほどBDS Japanのメンバーとお食事をご一緒し――出てくる料理の量がアラブ世界の子どもサイズ相当で驚いたのですが――パレスチナを訪れたことのある同志の皆さんのお話をたくさん伺いました。パレスチナ問題が、世界中いたるところの人々を突き動かすグローバルな問題であることを認識し、感動しています。目を開かれ、謙虚な気持ちになると同時に元気が出てきます。

米国のイスラエル支援とエルサレム問題

 BDS japan事務局の役重善洋さんから、米国の外交政策に関心をお持ちの方々が多いと伺いました。現在のドナルド・J・トランプ政権は、エルサレム問題からUNRWA(国際連合パレスチナ難民救済事業機関)への援助停止、西岸地区における援助削減、そしてガザ地区への対応まで、米国の外交政策を大幅に転換させました。この中でも特に大きいのはエルサレム問題だといえるでしょう。今回の滞在中、これらのトピックの中から毎日1つずつ取り上げてお話する予定です。本日はとりわけエルサレムに焦点を絞ろうと思います。最初に申し上げたいのは、トランプ政権の動きは派手ではあるものの、その目的は実のところ、過去50年間にわたる米国の外交政策に沿っているということです。

 おおまかな流れを確認しましょう。米国、あるいはトランプ政権は、2017年12月、自国の大使館をテルアビブからエルサレムへ移転すると発表しました。これは一見、非常に大きなシフトでした。というのも、1967年の第三次中東戦争でイスラエルが東エルサレムを含む西岸地区を占領してから今日まで50年間、米国は国際社会と同様、イスラエルの武力による土地の獲得の違法性を認め、国連安保理決議242および「土地と和平の交換」枠組みで定められたとおり、エルサレムの将来的地位は政治的交渉によって決定されるとする立場をとってきたからです。

 ここで別の議論も出てきます。イスラエルは果たして占領した土地の全てを返還する義務があるのかという議論です。これには6日間続いた1967年の戦争がイスラエルによる侵略戦争だったのか、あるいは自衛戦争だったのかという点が絡んできます。後者の場合、イスラエルには占領地を保持する権利が生じるということになります。結論だけ述べると、安保理では、同年夏の交渉の結果、イスラエルにとって自衛戦争だったということになりました。このことによって「土地と和平の交換」という枠組みが可能となり、イスラエルは土地を保持することが許されることになりました。米国は1967年以来、イスラエルが東エルサレムを含む西岸地区に駐留していることは国際法違反であり、和平プロセスに弊害をもたらすと主張してきました。しかし実のところ米国は二枚舌で、他方ではイスラエルがエルサレムを漸進的に併合して自らの支配下に置き、パレスチナ人を追い出すのを手助けしてきたのです。

 米国はいかに「手助け」をしてきたのか? その始まりはリンドン・B・ジョンソン政権が1967年に開始した2つの政策までたどれます。その一つは、第三次中東戦争後のイスラエルがアラブ諸国のあらゆる勢力に対して、質的軍事優位性(QME)を保つことを保証するものでした。言い換えると、米国はイスラエルに、アラブ世界の正規軍・非正規軍のいずれが相手でも、これらが単独でも連合してきても、問題なく勝利を収められるだけの軍事的援助・支援を与えることを決めたのです。これによってイスラエルは、中東で最強の軍隊を持ち、中東で唯一核兵器を所有し、世界でも11番目に数えられる軍事力を誇る国になりました。

 さらに第二の政策として、米国は、「土地と和平の交換」枠組みにおける政治的解決にコミットしてきたがゆえに、安保理での制裁や国際法からことごとくイスラエルを守ってきました。なぜならエルサレムに国際法を適用すれば、イスラエルが政治的交渉における切り札を失ってしまうからです。イスラエルを最大限有利にしたい米国は、国際法は解決策の一環ではなく問題そのものだと主張し、イスラエルが優位性を失わないようにしてきました。

 イスラエルの中東における圧倒的軍事力の維持と、法的枠組みの縛りを受けない法的プロセスとを可能とする支援――これらの組み合わせによってイスラエルは、過去50年にわたり、エルサレムを少しずつ削り取って自分たちのものとすることができました。そのため今、2017年に米国が大使館移転を発表したところで、現実問題としてはさほど具体的な変化はありません。というのもパレスチナ人は過去50年にわたり、エルサレムからの排除を耐え忍び続けてきたからです。

 ここまでのお話は、実はまだ導入です。このプレゼンテーションの本論を、大きく3パートに分けたいと思います。まず、1947年から現在までにかけてエルサレムの問題に適用されてきた法的レジーム(体制・枠組み)を概観します。続いて米国の介入と、その介入が何をもたらしたかを検討します。最後に、先へと進む道筋を考えたいと思います。

国連総会決議181号

3つの法的レジーム

 ここに挙げたのが3つの法的レジームです。1947年から1966年にかけてエルサレムの問題を規定していたのは国連総会決議181号。1967年から1992年にかけては、国連安保理決議242号と占領法規。そして1993年から現在までは、オスロ和平プロセスがこの問題を規定してきました。

 国連決議181号が提案されたのは1947年11月です。国連パレスチナ特別委員会で協議されたこの決議は、「英国が委任統治期に主導した破滅的な政策に対し、国際社会はどうすべきか」という問いへの応答でした。ここでいう英国の政策とは、パレスチナの地をユダヤ人の民族的郷土として約束しておきながら、同時にパレスチナ人を国際連盟規約に基づいて独立へ導くことにコミットするというものでした。国連決議181号に基づくパレスチナ分割案については、集会のパンフレットにも載っているので、皆様もよくご存じかもしれませんね。

地図・パレスチナ分割案

 この分割案をざっくりと説明すると、1947年時点で全人口の30%を占めていたユダヤ人には土地全域のうち55%を、70%を占めていたパレスチナ人には薄い黄色で示された45%を与えるというものでした。白い部分はエルサレムです。ここは国際管理下におかれ、いかなる国家の支配権も及ばないものと定められました。3つの一神教にとっての聖跡を30か所も擁するエルサレムは、宗教的にきわめて重要な土地です。ゆえに国連決議181号においてエルサレムは、いかなる単一の主権の管理下にも置かれることのない「分離体(corpus separatum)」となるとされています。

 1948年、武力によって建国されたイスラエルは、エルサレムの85%を占領しました。11%はヨルダンの支配下に置かれ、4%はノーマンズランド(中間地帯)のままとなりました。続いてイスラエルは西エルサレムを首都として宣言し、国連決議181号を拒否しました。181号決議は分割案の大枠を提示することでイスラエルの国家としての正当性を根拠づけている決議です。しかしイスラエルは、エルサレムのことになると181号決議を拒否するのです。イスラエル側の言い分は、パレスチナの側もどうせこの決議を拒否しているのだからいいだろう、ということ。また国際社会がイスラエルの武力による建国に力を貸さないせいで、自ら動かざるをえなかったからだ、ということ。こうしてエルサレムを占領したイスラエルは、この都市に181号決議はもはや適用されないとして、イスラエルの管理下に置きました。

 1967年の戦争後、イスラエルはエルサレムの全域を占領しました。ヨルダンの支配下にあった11%も、ノーマンズランドだった4%も。そして7月には、東エルサレムを併合しました。

地図・エルサレム

 この地図にはエルサレム市の境界が描かれています。1948年に西エルサレムを手に入れたイスラエルは、1967年に残る東エルサレムを占領しますが、それだけでなくエルサレム市の範囲を以前の10倍にまで拡大しました。言い換えればイスラエルは、1967年7月に、これまでよりもはるかに大きくなった東エルサレムを行政管理下に置いたのです。

国連安保理決議242号

 イスラエルが境界を押し広げると、国連総会はすぐさま2つの決議を採択して応答しました。まず1967年7月4日の2253号決議。これはイスラエルの拡大を非難するものです。続いて10日後に採択された2254号決議。こちらはエルサレムの併合を非難し、イスラエルの撤退を求める内容でした。というのも、これらの土地を占領するきっかけとなった1967年の戦争はともかく、その後の動きはどう見ても併合であり、禁止されているはずの武力行使による領土の獲得行為だったからです。

 米国の外交政策を理解するため、この当時の米国の動きを見てみましょう。米国は両決議の採択を棄権しつつ、他方では自国の大使館をテルアビブからエルサレムへ移すことを拒みました。これはイスラエルによる1967年の東エルサレム併合と境界の拡大に反対するというメッセージでした。

 こうして第2の法的レジームが始まります。181号決議に代わって用いられることとなったのは、安保理決議242号でした。この決議では、東エルサレムを含む西岸地区、ガザ地区、シナイ半島およびゴラン高原を引き続きイスラエルの管理下に置き、イスラエルがこれらの国々と恒久的和平を成立させられるようになったら、占領した土地をそっくりそのまま返還すると定められました。また占領法規の中で重要な位置を占めるジュネーヴ第4条約も影響力を持ちます。ジュネーヴ第4条約、とりわけその第49条は、占領地に占領国の民間人が入植することを禁じるものです。占領国は、占領地を管理して戦争前の原状へ復帰させる目的で占領地に存在することは許されるものの、占領地の領有権を主張してはならず、占領前の人口的・政治的・経済的状態を維持しなければなりません。

 242号決議の枠組みと占領法規を併せて考えれば、イスラエルはエルサレムを併合することはできないはずです。にもかかわらずイスラエルはエルサレムの土地を漸進的に収奪し、そこに住まうパレスチナ人を追い出しています。どうしてこんなことが可能になるのでしょうか?

国連安保理決議242号(1967年11月22日採択)

安全保障理事会は、

中東における重大な状況に関して継続的な関心を表明し、

戦争による領土獲得を認めないこと、およびこの地域のいかなる国家も安全に存続できるような公正で永続する平和のために取り組む必要性を強調し、

国連憲章を承認するすべての国連加盟国は憲章第2条に従って行動する義務を担ってきたことをさらに強調して、

  1. 国連憲章の原則を達成するためには、中東における公正で永続する平和を確立することが必要であることを確認する。それには以下の諸原則が適用されなければならない。
    1. イスラエル軍が最近の紛争によって占領された諸領域から撤退すること
    2. すべての要求および交戦状態を終結させ、かつこの地域におけるすべての国家の主権、領土保全、政治的独立、および、武力による威嚇や武力行使を受けることなく、安全かつ承認された国境線内において平和に生活する権利を尊重し、承認すること
  2. 以下の諸点が必要であることをさらに確認する。
    • 地域の国際水路における航行の自由の保障
    • 難民問題の正当な解決の実現
    • 非武装地帯の設定を含む諸手段による、この地域のあらゆる国家の領土の不可侵性と政治的独立の保障
  3. 合意を促進し、この決議の諸条項及び諸原則に沿った平和的で合意された問題解決を達成する努力を支援するために、関係諸国と接触し、継続的に連絡を取るために中東を訪問する特別代表を事務総長が指名することを要請する。
  4. 特別代表者の活動の進捗を事務総長が安全保障理事会に可及的速やかに報告することを要請する。

 ここからは少しややこしくなりますが、あまり混乱を呼ばないようにお話できればと思います。イスラエルは2段構えの議論をしています。まずは242号決議について。この決議には、イスラエルは「最近の紛争によって占領された諸領域(territories occupied in the recent conflict)」から軍を撤退させることとあります。しかし “(定冠詞をつけて)the territories” あるいは “all the territories(領土のすべて)” とは書かれていない。このことがイスラエルに「エルサレムや西岸地区、その他占領地の全てから撤退せずとも、その一部から撤退すれば問題ない」という解釈の余地を与えてしまいました。当時の交渉を率いていた英国(国連大使)のキャラドン卿が「戦争による領土獲得を認めない(the inadmissibility of the acquisition of territory by law)」という文言を入れると、イスラエルは「その文言が入っているのは決議の前文であるから、本文と同じような法的力は持たない」と応答しました。お分かりでしょうか? 禁止の文言は前文にあるのみで、明確にこれを規定する項目は存在しないがゆえに、解釈の余地が残っているというのが、イスラエル側の法的議論だったのです。

 これがイスラエルによる議論の1段目なら、2段目は何か? 占領地のすべてから撤退しないというのなら、どこからなら撤退するのか? イスラエルはここで、自分たちは「防衛可能な国境」を確立せねばならないのだと主張します。つまり、防衛に有利なように国境を変えるというのです。変えた国境はどのような形になるのか? イーガル・アロンは1967年、イスラエルが支配権を維持する「防衛可能な国境」の具体的な計画を提案しました。

地図・アロン・プラン

 この地図のオレンジ色の部分がイスラエルの管理下とされる地域です。テルアビブからヨルダンまで、まっすぐな動線が確保されていますね。このような形で、安全保障のために東の国境の管理を維持します。また下の方でも支配を維持します。そうなると、パレスチナ人が管理できるのは黄色い部分のみです。これは1967年に出された計画案ですが、イスラエルの入植事業が進展した現在の西岸の姿に不気味なほど似ています。つまるところイスラエルは、この図の黄色い部分からのみ撤退すると言っているのです。

 しかし占領法規の定めによれば、イスラエルは占領地の人口的・政治的・領土的現状を維持しなければなりません。ですから、国境を変えることはできないはずです。なのにどうして、こんなことが許されるかのように振舞うのでしょうか。イスラエルは、「パレスチナ」は存在せず、「パレスチナ人」は国際法に照らして民族ではないと主張しています。よってヨルダンの支配下に置かれた西岸にも、エジプトの支配下に置かれたガザにも主権はない。そして主権がなければ、法は適用されない。したがって法律問題ではなく事実問題として扱い、占領法規のどの部分が適用されるか、あるいはされないかをイスラエルが決めるというのです。これは法的議論としてまったくのでたらめなのですが、イスラエルはパレスチナ人への土地の返還を否定するため、この主張を押し通しています。

 米国はこのイスラエルの主張に反対しているわけではないことを思い出してください。イスラエルが制裁されれば、イスラエルはアラブの正規・非正規軍を打ち負かす力を失ってしまう。イスラエルを押しとどめるために国際法を適用したら、イスラエルは交渉の切り札を失ってしまう。よって米国は、イスラエルの行動に反対すると言いながらも同国を擁護し、先ほどご説明した枠組みを用いた領土拡張を看過してきたのです。そして1980年、イスラエルは全世界を前に、東エルサレムを自国の一部、すなわち統一された首都の一部として宣言します。安保理は即座にこれを批判する2つの決議、すなわち決議476号と478号を採択します。この1980年の決議以降、安保理がエルサレムの地位や入植の違法性について何らかの決議を行うことは、2016年12月までありませんでした。2016年当時の米国はオバマ政権下で、(イスラエルの入植建設を批判した)安保理決議2334号の採択を棄権したのでしたが、このことは後ほどまたお話します。

オスロ合意

オスロ合意

 さて、第三の法的レジームです。国連決議181号、そして決議242号と占領法規には既に触れました。その後1993年に第三の法的レジーム、オスロ合意に基づく和平プロセスが成立します。今日パレスチナ国家が存在しないのは、イスラエルがオスロ合意に従わなかったからだと思っている人が少なくありません。しかしこれは必ずしも正しい認識ではありません。実際のところ、そもそも暫定自治政府原則の宣言の内容自体がひどいもので、イスラエルに現在のやりたい放題を可能とし、その領土拡大の野望を叶えるに足る力を与えてしまいました。

 1978年、イスラエルがエジプトにシナイ半島返還を決めたキャンプ・デービッド合意において、メナヘム・ベギンとアンワール・アッ゠サーダートが「中東和平の枠組み」を提示しました。オスロ合意のことを詳しく追っておられる方はご存じでしょうが、オスロの和平プロセスは、この枠組みをほぼ一言一句そのまま反映したものでした。和平プロセスは5年間からなり、まず2年間暫定自治が行われたのち、3年目から国境や難民、エルサレムの扱いなどの問題を含む最終的地位交渉が開始されると定められました。

 ではオスロ・プロセスの「ひどい」ところは具体的にどこなのか? まず第一に、暫定自治期間の最初の2年間と、続く3年間の間に何の関係もないということです。イスラエルの希望により、これら2つの時期は別個のものとされ、最初の2年間に何をしようが、エルサレムや難民、国境をめぐる最終的地位交渉には何の影響も及ぼさないとされました。第二に、占領法規などの国際法に一切言及がないことです。つまり、イスラエルの存在を違法とする諸規制が政治的交渉への妨げと見なされ、和平プロセスから意図的に除外されてしまいました。

 まだあります。ジョンソン政権が1967年に打ち立てた安保理決議242号が事実上適用されないことです。決議242号にはイスラエルが土地を返還して恒久的平和を打ち立てるものとされていますが、実際にパレスチナ人と交渉に入ると、イスラエルはこの和平と土地の交換はそっくり丸ごとの交換を意味しないと言い出します。そうではなく、イスラエルとパレスチナが何らかの合意に達したならば、その時点で決議242号は満たされるというのです。

 より悪いことには、オスロの枠組みにおいては、エルサレムのユダヤ人入植地は「入植地」ではなく「ユダヤ人居住区」とみなされています。具体的には、和平プロセス下当時のエルサレムにおけるイスラエルの入植地のうち、実に54%が「ユダヤ人居住区」とされました。ネタニヤフはこれらの入植地の存在を否定し、ユダヤ人居住区が人口増加で自然に拡大しただけだと言いますが、オスロの前提に基づけば彼は正しいのです。そしてパレスチナ側、PLOもこれを呑みました。

 米国はイスラエルを守ることにコミットしているうえ、オスロの条件は惨憺たるもので、どうすればこの問題を終わらせられるのか明言されていません。この状況の中、イスラエルは新たな既成事実を次々と作り、土地の獲得をいっそう進めていきます。その一環として建造されたのが分離壁、またはアパルトヘイト・ウォールです[注1]。

[注1] 2004年に国際司法裁判所によって国際法違反と判断されている。

地図・エルサレム

 この地図をご覧ください。地図の左側が西エルサレム、右側が東エルサレムで、間にある緑色の線が1949年のアラブ・イスラエル戦争の停戦ラインです。1967年7月、イスラエルはエルサレム市の範囲を紫色の部分まで拡大し、さらに2000年には、青の線であらわされるアパルトヘイト・ウォールの建設を始めました。どれだけの土地をイスラエルが奪ったか、ご覧ください。これは全てオスロ合意、ならびに1967年に定められた法的枠組みに沿って行われた行為です。

 こういったことは言うまでもなく入植者や入植地の増加・拡大につながりました。そして米国はイスラエルが入植を続けるための隠れ蓑を与えています。下の図をご覧ください。入植者数が激増しています。厳密にいえば第三次中東戦争後の1968年、そして入植地拡大にコミットするリクード党が初めて政権を取った1977年から、入植地の拡大と入植者の増加が続いていますね。

 トランプ政権が成立するはるか前からこういったことが起こっていたわけですが、これが何を意味するのか。現在までの米国における政権のいずれも、これを止めようとはしてこなかったということです。安保理決議2334号の採択時に(拒否権を行使せずに)棄権したオバマ政権も、実はこの問題の片棒を担ぎました。

 オバマ政権は2011年、ほぼ米国が用いてきたとおりの文言で入植地の拡大を非難する国連決議案に対し、政権成立後初めての拒否権を行使しています。オバマ政権はまた、安保理決議2334号で入植地拡大が非難されたのと同時期に、米国からイスラエルに今後10年間与えられる支援の額を30億ドルから38億ドルに増額しています。したがって、トランプが2017年に行おうとしていることは、一見あたかも米国のこれまでの外交方針を乱すようでありながら、実はしっかりとこれに沿っているのです。

 これは、パレスチナの指導者たちが何もできなかったことの帰結でもあります。彼らは米国から距離をとることができなかった。米国が和平プロセスの25年間にわたって何をしてきたかは明白であるにもかかわらず。

 また、2016年の決議2334号採択という大きなチャンスも活かせなかった。パレスチナの指導者たちは、トランプ政権がパレスチナに対して何をしようとしているのかを把握しているならば、この決議を用いてパレスチナ問題を国際的な問題に押し上げ、米国にコントロールされた二国間交渉の沈滞状態から脱するべきでした。にもかかわらず、彼らは何もしませんでした。彼らは、力で支配する指導者としてのトランプが、歴代政権にはできなかったことを何らかの形でなしとげ、自分たちにパレスチナ国家を与えてくれるはずだと期待するばかりでした。

ユダヤ人入植者と入所地の増加をしめすグラフ

二国家案の死

地図・エルサレム、行政区分、ヨルダン渓谷の軍事緩衝地帯、などで細切れになったヨルダン川西岸

 こういったことがいかなる意味を持つのか? この地図は現在の西岸地区を表しています。何かに似ていませんか? 紫色の部分は現在のエルサレム市で、青色は和平プロセスの枠組みでイスラエルの管理下に置かれる部分です。そして黄色はパレスチナ人が押し込められて暮らしている部分です。イスラエルが1967年に提示したアロン・プランにそっくりではありませんか。イスラエルはこのプランを実現させたのです。こんな状況がある以上、私たちははっきり認識しなければなりません。パレスチナ国家はもはやありえないということを。二国家案、パレスチナ国家をつくるという考えは、終わったのです。死んでしまったのです。なぜ私たちは、あたかもこの案が有効であるかのように語り続けているのでしょう。パレスチナ国家はありえない、エルサレムがパレスチナの首都となることはないと言い放つネタニヤフ政権のもとではなおさらです。

地図・切り刻まれたエルサレム周辺、2013年

 パレスチナ人の大多数にとって、エルサレムへの米国大使館移転は大きなショックでした。しかしこれは、エルサレムがパレスチナの首都となりえなくなったからではありません。大使館移転により、パレスチナ人はエルサレムに帰属しない、排除されるべき存在だということが宣言されたからです。これらは全く違う話です。前者は主権と支配の問題ですが、後者は帰属の問題です。そしてほとんどのパレスチナ人にとって一番差し迫った問題とは、「自分はここ(エルサレム)にとどまれるのか?」ということです。上の地図の赤で示したエリアは東エルサレムの、およびその周辺のパレスチナの村々です。例えばイーサーウィーエ、アッ゠トゥール、ベイト・ハニーナ、アル゠イーザリーエ、アッ゠ラームなど。イスラエルの計画が進展すれば、これらの村に住む人々は排除されます。イスラエルの入植型植民地主義による領土拡大と、その管理支配の確立が続けば、強制的に排除されてしまいます。ですから、エルサレムに首都が置けるか否かが問題なのではありません。問題なのは、今回の動きによって、そもそもエルサレムにとどまれなくなってしまうことなのです。

 この排除は、種々多様な方法を利用して進められます。イスラエルの既存の法律、環状道路建設、家屋破壊、新しい法の制定、先に述べた分離壁、入植者に好き放題させて何の罰も与えないこと、エルサレムに住むパレスチナ人に7年間連続して居住していたことを証明させる「生活の中心」政策――こういったことは全て、米国が大使館を移したことに一切関係なく、毎日起こり続けています。そしてこれこそが、苦闘の焦点です。彼らの闘いは、この排除に対する闘いであり、帰属するための闘いです。いわばパレスチナにパレスチナ人として残るための闘いなのです。

 では、この先どうすればいいのか? 今私たちに求められているのは、外交交渉に先行きはなく、パレスチナ国家の可能性はもはやないという現実を認めたうえで、パレスチナ人の帰属と人権のための闘いが今もなお続いているということを認識することです。世界の市民社会は、ボイコット・投資引揚げ・制裁への継続したコミットメントを通して、まさにこのことを認識し直そうとしています。この動きは、これまで述べたような人権の規範や国際法がパレスチナ問題に適用されてしかるべきであることを認め、政治交渉には先がないどころかそれ自身問題の一端であることを認識するとともに、米国が提示している解決策やパレスチナの指導者たちが目指すものを乗り越えた先に何かが見出せるのではないか、という展望を語るものなのです。ご清聴ありがとうございました。

アリー・クレイボー氏からのコメント

アリー・クレイボー
アル=クドゥス大学教授。専門は文化人類学。京都大学大学院人間・環境学研究科客員教授として滞日中だった。

 まず何よりも、マブルーク(おめでとうございます)。すばらしいことです。BDS Japanの行っておられる活動をとても嬉しく思います。シュクラン(ありがとう)、大変すばらしい講義でした。

 当然ながら非常に難しい内容ではありましたが、エルサレム出身者である私には手に取るように分かる、私たちにとっての常識ともいえることがたくさん言及されていました。ヌーラさんは今回、エルサレムを奪い取ろうとするイスラエルの計画について、1967年以前からさかのぼり、大変興味深く鮮やかな歴史的説明をしてくださいました。また法的システムについて、そしてトランプ政権がイスラエルの首都をエルサレムと認めたことでいかに「統一された新たな都市」としてのエルサレムの法的・国際的なステータスを正当化したかについて話してくださいました。トランプ政権はまた同時に、私たちから一切の権利をはく奪しました。簡単に述べますと、トランプ政権以前の私たち(エルサレムのパレスチナ人)は、事実として占領下の住民でした。しかしトランプは、まるで私たちの足元のカーペットを突然引き抜くかのように、私たちは占領下住民ではなく、エルサレムの歴史に本来いてはならない不慮の存在だということにしてしまいました。トランプ政権は、私たちが歴史的に持っていたはずの権利である、エルサレムに帰属する権利を奪いました。私の家系は14世紀にわたってエルサレムに住んでおり、記録にもはっきり残されています。しかしトランプ政権が成立してから、突如として私には何の権利もなければ歴史もないことになってしまいました。

 もうひとつお話すべきことがあります。1967年のイスラエルによる占領以後、私たちの財産権は怪しいものとなってしまいました。残されているのは、借地者に地主として認められる権利だけです。実際、アラブ人がエルサレムで所有する財産は、公式には登記されておらず、借地者に地主として承認される取引を行うための法的書類がそのままなのです。そういうわけで、私たちは持てるものを徹底的に奪われました。そしてこの収奪に資金援助を与えているのが米国政府です。米国のシステムの新位相の中で、私たちはもはや占領下の住民ではなく、イスラエルに外からやってきて、そこに帰属する資格のない厄介者とされてしまいました。ですから、ヌーラさんが非常に明確に説明してくださったように、私たちは遅かれ早かれ、エルサレムを追い出されようとしています。以上をコメントとして申し上げます。皆様が状況を理解する助けとなるように。ヌーラさんが見抜いているのは、まさにこのことです。トランプは占領を「終わらせ」、イスラエルによるエルサレムの接収を正当化したのです。

質疑応答

[質問] BDS運動でどのようにしてパレスチナ人の土地を奪還できるのですか?

 誤解がないように申し上げておくと、私はBDS運動によって何かが取り戻せるとは思っていません。BDSは連帯のための戦略であり、政治的ヴィジョンではないのです。運動を立ち上げた人々も実際、この運動は二国家案を支持するものでも、一国家案を推すものでもないと明言しています。パレスチナ国家の憲法をどのようなものにすべきか、イスラエル人とパレスチナ人の関係性をいかなるものとしていくべきか、具体的なヴィジョンを抱いているわけでもありません。BDS運動のメッセージはシンプルです。「外交官たちがつくりだした窮状を乗り越えるため、グローバルな市民社会運動に参加してほしい」。よって私はBDS運動を必要不十分なものと認識しています。これだけでは足りないのですが、必要とされている要素のひとつであることは間違いないのです。十分でないというのは、政治運動ではなく、政治的ヴィジョンを持たないからです。また考えてみれば、BDS運動はパレスチナ人に残された最後の道といってよいでしょう。他の全てが違法化されてしまいましたから。武力を用いればテロリズムとされます。外交に頼った結果は行き止まりでした。法に頼ろうとしても、米国が国際刑事裁判所や国際司法裁判所、その他さまざまな裁判所で行ってきたことのせいで、ほとんど不可能になってしまいました。これはまた別に論じるべきトピックですが。こうなると、私たちに残された道はBDSしかありません。そしていっそう悲しいことには、パレスチナ人自身では行えないのがBDSなのです。私たちを信じ、ともに取り組んでくれるよう、他の人にお願いしなければならないのですから。それにすら応じてもらえなければ、もう私たちには何も残されていません。ですからBDSには足りない点が多くあります。それでもなお、未来を切り開いていくためにはきわめて重要な運動なのです。

[質問] アメリカでBDSキャンペーンを行っている個人に対してイスラエルが入国拒否をする、ブラックリストを作るというふうに言いましたが、アメリカ国内でそれによってどのような影響が出ているでしょうか。またBDSを禁止する法律を作っている州もありますが、それによってどのような影響が出ているでしょうか?

 大変よいご質問ですね。BDS運動は2005年、BDS民族評議会(BNC)とPACBIによって始められましたが、当時は誰もこれを真剣には受け止めず、「活動家がバカバカしいことをやっている」としか見なされませんでした。しかし2018年の今はどうでしょう。運動が次々と成功をおさめ、止められない勢いで突き進んでいるがために、米国でもイスラエルでもトップ級の立法課題として扱われるようになっています。ですので、BDSを公然と支持している場合、イスラエル入国を拒否されるかもしれないというのは事実です。BDS運動支持のために今日ここにお集まりの皆様も例外なく、入国を許されない可能性がありますね。私はパレスチナ人ですが、米国のパスポートしか持っていないため、BDS支持を理由に入国を拒まれる可能性があります。とはいえ(パレスチナ人である)私の場合、BDSとは無関係に入国拒否される可能性も高いのですが。エルサレムの人の状況と似ていますが、私の場合は外からです。入国を拒否するというのは、私が二度と戻れないようにすることと同じです。いずれにせよ、こういったことをイスラエルは事実として行っています。

 米国では、50州中22州で反BDS法案が出されました。これらの州でBDS運動を支持すると、州を相手に仕事の契約が取れなくなったり、州や連邦から給料の出る公立大学の教員などの仕事に就けなくなったりする可能性があります。私たちはこういったところでも困難な闘いを強いられています。他方、米国議会では、BDSの活動にかかわった場合、最高で懲役20年と25万ドルの民事制裁金を課されうる法案が出されています。ですので、この運動に取り組むにあたっては大変恐ろしい側面もあります。こういった法は米国憲法修正第1条で保障されている表現の自由の権利に則って覆せる場合がほとんどだと思いますが、これもまた大変な道のりです。実際に求められている活動に取り組む代わりに、運動のリソースや活動力を、法廷での闘いに注ぎ込むことになるからです。しかし同時に、これほど露骨に反BDS法が提案されているということは、BDS運動の重要性とそれがもつ意味を物語っていると思います。BDS運動はイスラエルの語る物語を書き直し、犠牲者ではなく抑圧者としてのイスラエルを表に出しています。だからこそイスラエルは、実際に奪われた土地を取り返すには至りえない運動であるにもかかわらず、きわめて大きな脅威を感じているのでしょう。

[質問] 一国家解決のプロセスにおいて、自治政府は解体されるべきなのでしょうか? そしてその解体をパレスチナの人々が支持することは考えられるのでしょうか?

 未来を見据えた、大変スケールの大きい質問ですね。パレスチナ自治政府を悪だ、非生産的だ、問題の一端だと語ることは非常に簡単ですし、これらのイメージは実際、いろいろな意味で正しいものでもあります。パレスチナ自治政府は占領の手先になり果ててしまいました。なぜなら自治政府の治安部隊は、入植者や入植地を守るのに、パレスチナ人を守らないからです。自治政府はまた、人々がガザと連帯して抗議行動を行うことを許さず、参加者を投獄して罰しています。こういったことは枚挙にいとまがありません。とはいえ、自治政府についてひとつだけ良い点を申し上げておきます。自治政府には、腐敗した政体という以外の側面もあります。かれらはパレスチナ国家建設のヴィジョンに政治的にコミットしている存在でもあり、よって先ほど申し上げたような弾圧のプロセスに関わっているのは、パレスチナには国家となる力があるのだと示そうとする行為、自らのヴィジョンへのコミットメントの一環でもあります。私たちも知るとおり、国家が国家たる資格を得たいがために自らの民を管理する方向に向かい、他の何かを築く道を放棄することはままあるわけですから。

 ここで本当に問われるべきは、自治政府がどのようなヴィジョンを出してくるかでしょう。二国家解決にもはや先がないことは明らかです。パレスチナ国家建設の展望はなくなりました。オスロ合意に基づく、あるいは米国の仲介を経たパレスチナ国家などもはや成立しえないことは明らかです。二国家解決こそ自治政府の求めるものだというならば、彼らがすべきは、オスロを無効化し、米国から距離をとることでしょう。ですがもし、彼らが追求しているのは二国家解決ではなく、本当の意味でパレスチナの人々を自由に導き、アパルトヘイトを終わらせ、入植型植民地主義に抵抗するためのヴィジョンなのであれば、彼らはもっと創造性のある未来像を描かなければなりません。つまり、自治とイコールではない未来や自由を想像しなければならないのです。20世紀のほとんどを通して反植民地主義運動の一端を担ってきた私たちは、自由イコール自治および独立だ、と思うようになっています。しかし今日の私たちは、自治や独立は自由と同義ではない、もっと大きな視野を持たなければ、というところに来ています。世界には他にも、自由からは程遠い状態にあるけれども、自らの国家を持つことは許されない人々がいます。例えば米国の黒人のことを考えてみましょう。今彼らが自由であるとは言えませんが、彼らが自らの国家を持つことはありえません。では、彼らにとって「自由」とは何なのか? こういった創造的な思考が、パレスチナ人にも求められています。私たちが地平線の先に見てきた「国家建設」とイコールではない自由とは、いったいどのような姿をしているのでしょう。私たちのためだけでなく、世界のためになる何かをパレスチナに築くとすれば、それはどんなものになるでしょうか。

[質問] BDSやパレスチナの文脈においてヨーロッパ諸国はどのような対応をしているのでしょうか? 彼らは影響力を持っていないのでしょうか?

 ヨーロッパ諸国は何かと大きな影響力を持ちえますが、パレスチナ問題の場合はそうともいえません。これらの国々は、パレスチナ人や国連機関に対する主要な援助提供国です。その地位を活用してもっと大きな役割を果たしうるはずですが、当のヨーロッパはそれを望んではいません。トップブローカーの座を米国と争おうとしている国もありません。そんなメンタリティは誰も求めていませんし。というわけで、そのあたりの動きにもかかわっていません。ヨーロッパはまた、PLOの方針に従わねばならないと考えているため、グローバルな市民社会への反応が鈍いところもあります。ヨーロッパはパレスチナ人と連帯しているのですけれども、その連帯を示すにあたって、パレスチナ自治政府が出した方向性に従うのです。自治政府は実際にはパレスチナ人に益をもたらさないことも多かったのですが、それにもかかわらずヨーロッパはこのラインを守っているわけです。これに加えて、イスラエルと近い距離を保つ政策もあるため、イスラエルを直接に批判することを嫌い、占領の違法性を認めることしか望んでいません。これは入植地製品のボイコットにつながる突破口が存在するということでもあるのですが、いずれにせよ他の形でイスラエルを批判しようとはしません。また、エルサレムに大使館を移転させるような国もないでしょう。ですので、(占領の違法性を認める以外に)他のアクションを取らない、一貫したソフトな立ち位置であるということができます。このような状態ですから、私はヨーロッパがパレスチナ問題の風向きを変えるとは思いません。パレスチナの指導部がヨーロッパの諸大国に違う動きを取るよう求めたら変わるかもしれません。しかしながら、パレスチナの指導部がヨーロッパにパレスチナ国家の承認を求めていますが、すべての国が承認しているわけではありません。率直に言って、ヨーロッパはこれまで歴史的に国際社会の方向性に従ってきましたし、これからもそうするでしょう。ですからパレスチナ人がすべきなのは、国際的に人々を動かしていくことです。皆様が今まさにここでしておられる活動のように。南アフリカでもやってきましたし、オーストラリアも、米国の市民社会も巻き込んでいます。これはリーダーシップを取ることです。ヨーロッパの国々もいずれまた、これらの国々の後に続けるように。

ガザ危機を理解するために

ヌーラ・エラカート
第32回多田謠子反権力人権賞受賞発表会
2018年12月15日 於・連合会館 通訳・高橋宗瑠

講演の目的

  1. 2018年ガザのパレスチナ人の抗議を理解する
  2. ガザにおける5月14日の虐殺を入植型植民地主義の文脈に位置付ける

内容

  1. 枠組み:入植型植民地主義とアパルトヘイト
  2. 背景:ガザとエルサレム
  3. 現状:帰還大行進と大使館移転

 マルハバ、シュクラン(こんにちは、ありがとうございます)。今まさに求められている重要な取り組みをBDS Japanがここ日本でキックオフする今日、BDS民族評議会を代表してこの場に立ち、その歴史の一部となれることを大変誇らしく思います。皆様の活動に感謝の意を表します。どれほど驚き、そして感動しているか、言葉では言い表せません。これまで世界中のいろいろな場所を訪れてきましたが、人々が自由のため、そしてとりわけパレスチナ人のために示してくれる連帯には、いつも新鮮な驚きを覚えています。本当にありがとうございます。

 今日はパレスチナと、そこにおける70年間の入植型植民地主義に焦点を絞ります。この70年の間、パレスチナでは暴力が激化し続け、パレスチナ人の命がきわめて不安定な状態に置かれてきました。またパレスチナ人が非人間化され、その命が失われることがあたかも当然かのように受容されるのと同時に、「国家安全保障」「イスラエルの自己防衛」という枠組みにおいてパレスチナ人の殺害を正当化する、捻じれた言説がますます強まっています。

 よって今回は、イスラエルの安全保障と自己防衛という枠組みにおけるパレスチナ人殺害というグロテスクな行いから、最も直近の例を取り上げます。そして、これがパレスチナ人をパレスチナから追い出してシオニスト入植者と置き換えるという入植型植民地主義的排除のプロジェクトにいかにはめ込まれるかを明らかにしたいと思います。

5月14日の虐殺

 さて、私がお話したい出来事についてです。今年(2018年)の5月14日、アメリカ合衆国は自国のイスラエル大使館をテルアビブからエルサレムへ移しました。ガザ地区では現在、パレスチナ人が難民の帰還権を求める抗議行動を継続して行っているのですが、その大使館移転の日にもこの抗議が行われていました。パレスチナ人のデモ参加者たちは非武装で、イスラエル市民にも軍事施設にも脅威を及ぼさない存在でした。にもかかわらずこの日、イスラエル軍のスナイパーたちは、デモ参加者たちを射殺するよう訓練を受けて準備していました。このたった1日で、イスラエル軍のスナイパーによって殺されたパレスチナ人の数は58名。しかし国際社会からあがったのはハマースを非難する声ばかりでした。

 時間の都合で駆け足になりますが、今回論じたいのはこのような内容です。目的は、今年行われている抗議行動を理解すること。そしてそれがなぜ、どのように大使館移転につながっているかを理解し、より広い入植型植民地主義のコンテキストに位置付けること。しかし今日のお話の本題は、ガザではありません。イスラエルが本当の意味で問題としているのはガザでもなく、ハマースでもありません。イスラエルが問題としているのは、パレスチナなのです。

 このことを3つの角度からご説明したいと思います。まずは入植型植民地主義およびアパルトヘイトという枠組み。次いで問題の背景。ここでは時間の都合上、ガザに焦点を絞ります。そして最後に、今現在何が起こっているのか、というところに立ち返りたいと思います。

入植型植民地主義とアパルトヘイト

地図・ヨルダン川洗顔の入植地、占領地、国境線の変化

 入植型植民地主義なるものの構造を簡単にまとめてみましょう。これは入植者が先住民を搾取するだけでなく、彼らに代わってそこに住まうために植民地にやってくるというものです。そしてこの目的を果たすため、シオニストは2つの原理を追求します。ひとつは最大限の土地を奪い、その土地に住まうパレスチナ人の数を最小限にとどめること。もうひとつは、最大数のパレスチナ人を最小限の土地に押し込めることです。

 イスラエルがガザで行っていることは非常に暴力的でグロテスクです。ですが実は西岸地区でも同じプロセスが起こっているのです。ここでイスラエルは可能な限り多くの土地を奪い、その土地の上でもきわめて狭い領域にパレスチナ人を押し込め集住させています。

 西岸やガザだけでなく、イスラエル領内でも同じことが起こっています。南部のネゲブ地域では、イスラエルがベドウィンの人々の移送を提起しています。ベドウィンの人々はイスラエル建国の1948年時点で既に一度、元々の土地を追われているのですが、イスラエルはその彼らのうち7万人を耕作地から立ち退かせ、都市の居住区に集住させようとしています。

ガザとエルサレム

地図・ガザとイスラエルの境界に広がるの緩衝地帯

 ガザでもまた同じことが起こっています。土地を奪う手段として西岸で用いられているのは軍令、イスラエル領内では民法ですが、ガザで用いられているのは戦争です。緩衝地帯を広げることで土地を次々と奪い、実に200万人のパレスチナ人を365平方キロメートルの狭きに押し込んでいるのです。これはイスラエルが各地でパレスチナ人に行っていることの縮図といえるでしょう。

 ガザの歴史を簡単にお話します。オスマン帝国時代のガザは重要な商港を擁し、パレスチナに設けられた県の中でも最大の人口を抱えていました。現在のガザは貧困と死の具現のように見られていますが、歴史的には繁栄を誇っていました。

 1948年の建国時、イスラエルはおよそ500に及ぶパレスチナの村々を破壊し、約80万人のパレスチナ先住民を強制追放しました。そのパレスチナ人の多くがガザに逃れました。ゆえに今日、ガザ地区のパレスチナ人の75%は、現在イスラエルとなっている土地から逃れてきた難民となっています。

 ガザはまた歴史的に、イスラエルに対する抵抗の拠点となってきました。西岸よりもさらにその色が濃かったため、イスラエルに対する「脅威」とまで呼ばれるようになりました。また、イスラエルが初めてガザを占領しようとしたのは、実は1967年ではなく、ガマール・アブドゥル=ナーセルがスエズ運河を国有化した1956年のことです。このときはドワイト・D・アイゼンハワー政権下のアメリカ合衆国が圧力をかけたため、イスラエル・イギリス・フランスは4カ月で撤退しました。

 そして1967年、イスラエルは改めてガザ、さらにエジプトのシナイ半島、シリアのゴラン高原、そしてご存じのとおり西岸地区を占領します。つまりイスラエルはガザを合計2度、1956年と1967年にそれぞれ占領しているわけです。このとき、ハマースはまだ存在すらしていません。ハマースが誕生するのは67年の占領の20年後、1987年ですから。

 その後、和平プロセスに踏み出したイスラエルは、ガザのみがパレスチナ国家として成立するというヴィジョンを抱きました。まずイスラエルは宗教上の理由から西岸地区を手放したくはありませんでした。また、西岸地区は西帯水層でも指折りの重要な水源を擁しています。さらには東でヨルダンとの国境にも接しています。ゆえにイスラエルは、ガザよりも西岸を保持することに熱心でした。そして90年代初頭から、ガザの孤立と反開発に向けたヴィジョンを描き始めました。

 このような流れの中、1990年の湾岸危機に際してヤーセル・アラファートがサッダーム・フセインによるクウェート占領への支持を表明します。これはパレスチナ人にとって最大の経済危機のひとつをもたらしました。なぜなら、クウェートで出稼ぎをしていたパレスチナ人が、アラファートの占領支持への報復として国外追放され、故郷への送金が減ってしまったからです。これにより、パレスチナ人の生活はいっそう不安定になりました。ガザのGDPは41%下落します。1990年時点で食糧支援を必要とするパレスチナ人世帯数は1万でしたが、翌1991年には12万に急増しました。この数字は和平プロセス開始時から現在にかけていっそう大きくなっています。今日、食糧支援がなければ生きられないパレスチナ人世帯数は83万を数えます。この状況の中、イスラエルはガザのパレスチナ人労働者がイスラエル領で働くことを禁じ、代わって外国人労働者を入れ始めました。

 こういった文脈のもとでイスラエルは、1993年にガザを初めて封鎖します。地上包囲と海上封鎖が開始された2006年がガザ封鎖の始まりの年とされがちですが、そうではありません。1993年、イスラエルはガザ地区を電気フェンスで囲み、地区からの出入りを制限し始めます。イスラエルのこういった動きの背景にあったのは、オスロ合意締結を目指してPLOと行っていた交渉でした。

 この封鎖の9か月後、イスラエルとPLOはオスロ合意を締結します。その後すぐ、当時のイスラエル首相シモン・ペレスは、UNESCOでの会議で公にこう発言しました。ガザ地区はいずれパレスチナ独立国家となるであろう、対する西岸地区はガザと比べて曖昧な状態に置かれるだろう、と。これが1993年12月のことです。

 つまり、イスラエルは1993年にはこう表明していたわけです。パレスチナ国家となるのはガザ地区のみである。だが食糧支援がなければ生き延びられないようにし、封鎖して世界から孤立させる、と。これはガザからまだ1度も自爆攻撃のない、1発のロケットも放たれていない時点でのことでした。ハマースが初めての自爆攻撃を実行するのは1994年4月です。これはヘブロンで起こった虐殺事件に対する報復でした。米国出身のユダヤ人入植者バールーフ・ゴールドシュテインが明け方にイブラーヒーミー・モスクに侵入し、礼拝をおこなっていた29人のパレスチナ人を射殺した事件です。

 1996年にはネタニヤフが首相に選出されます。彼は和平プロセスへの反意を明確に表明し、パレスチナ国家の樹立はありえないと言い切りました。これが1996年のことです。2000年7月には、入植地の数が倍増し、キャンプ・デービッドでの中東和平首脳会談は失敗し、同年に第二次インティファーダが起こりました。この第二次インティファーダの文脈において、イスラエルは一連の超法規的暗殺作戦を開始し、その中でハマースの幹部を2人暗殺します。設立者アフマド・ヤースィーンとアブドゥルアズィーズ・アル=ランティースィーです。これに対する応答として、ハマースはイスラエル領内へのロケット攻撃を強化していきます。

2004年から2008年のガザ攻撃一覧

 こうした状況において、イスラエルはガザからの一方的撤退を考えるようになり、2004年にこれを実行します。イスラエル軍と入植者の完全な引揚げが2005年に行われました。しかしその後もなお、イスラエルはガザ地区への支配を維持し続けます。領空、領海、境界地帯を掌握するだけでなく、ガザに組織立った軍事攻撃を加え始めます。狙いは緩衝地帯の拡大、そしてパレスチナ人人口を狭い土地に押し込めることです。

 撤退が完了した2005年から現在まで、こういった攻撃は続いています。2008年と2012年、2014年に行われた戦争については皆様もよくご存じでしょう。ですが、これだけではなく、イスラエルは2004年に撤退を宣言してから2008年までの間にガザに累計22回もの軍事攻撃を浴びせています。

 ですから、ガザ地区のパレスチナ人が立ち上がって抵抗し、自由のために闘っているのは自然なことなのです――いかなる民族でも、同じ状況に置かれれば同じように反応するでしょう。今年の3月30日、ガザのパレスチナ人は「帰還大行進」と呼ばれる抗議行動を開始し、約4万5000人のパレスチナ人が緩衝地帯に集合しました。そう、パレスチナに「国境」はないのです。というのも、イスラエルはこれまで一度たりとも国境を宣言したことがないからです。「国境」ではなく「緩衝地帯」に人々は集まりました。帰還の権利、封鎖の終わり、そして自由を求めるために。

帰還大行進と大使館移転

 3月30日に抗議行動を始めたパレスチナの人々は、ナクバの記念日である5月15日まで行進を続けると発表しました。抗議行動が始まるや、イスラエル軍は参加者たちにすぐさま殺傷兵器を向け、イスラエル軍やイスラエル市民を殺す力など持ちえない人々を射殺しました。

 ここで皆様にお伝えしたいのは、ガザに閉じ込められているパレスチナの人々――1日2000キロカロリーという最低限の栄養で生き延びている人々、移動の自由も、自らの生を自ら管理する権利も、戦争のない生を生きることも許されていないこの人々こそ、生きるために誰よりも創造的に、しかも大きな喜びを以て戦い続けている人々でもあるのだということです。

 イスラエルは帰還大行進の初日から、最高レベルのスナイパーを配置してパレスチナ人を射殺していました。5月14日のたった1日で58人のパレスチナ人が殺害されたと申し上げましたが、これまでに合計しておよそ200人のパレスチナ人が遠距離から狙撃されて殺されています。また、子ども2500人を含む14000人のパレスチナ人が負傷しています。それでもなお、イスラエルと米国は、こういったことが起こったのはハマースのせいだと言うのです。

 日本および世界中で自由のために闘っておられる皆様は、私たちと同じく、お分かりのことかと思います。これは国家暴力の遺産なのです。そしてこの遺産を乗り越え、自由を手に入れるには、民衆の力によって立つしかありません。そして「ボイコット、投資引揚げ、経済制裁(BDS)」運動は、国家にはできなかったことを市井の人々が成し遂げようとするグローバルな運動であるがゆえに、まさにこの「民衆の力」を体現しています。この運動に加わってくださり、ありがとうございます。パレスチナの人々と、自由を求めるその闘いに連帯してくださり、ありがとうございます。そして多田謡子反権力人権賞の歴史に私たちを加えてくださいましたことに、深く感謝いたします。

トランプ時代のパレスチナ問題
―難民問題を中心に

ヌーラ・エラカート
BDS japan 発足集会「あなたにもできる!イスラエル・ボイコット」
2018年12月16日 於・在日本韓国YMCA 通訳・高橋和夫

 まず何よりも「ありがとう」を。パレスチナ人を含む全ての人に自由と尊厳、そして正義を――という原則に積極的に関わってくださり、本当にありがとうございます。ここに来てたくさんの人々からのサポートを受け、心から感動しています。米国から来た身としてはなおさらです。米国はイスラエルの最大の出資者であり、イスラエルが占領とアパルトヘイト、入植型植民地主義を続けることを可能としている国家ですから。しかも米国議会では今、非暴力の市民社会運動であるBDSへの参加を非合法化し、最大で懲役20年および民事制裁金25万ドルを課せる法律の制定が検討されています。そんな場所からここに来て、たくさんの参加者の方々のお顔を見ると、心が浮き立って希望に満ちあふれてきます。

 日本に来て今日で3日目です。毎日、パレスチナ問題にかかわる喫緊のテーマを1つずつ、講義の主題として扱ってきました。初日には大阪でエルサレムの話をしました。昨日は多田謡子反権力人権賞の受賞式で、ガザとそこにおける戦争について入植型植民地主義の枠組みからお話しました。今日は難民について、とりわけ国際連合パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)に対する3億8400万ドルの予算削減について論じたいと思います。

 皆様もおそらくご存じのとおり、トランプ政権はパレスチナに対して極端な政策をとってきました。例えば米国大使館をテルアビブからエルサレムに移したり、米国から西岸への援助を2億ドル削減したり、ワシントンDCのPLO大使館を閉鎖したり。さらには先ほど申し上げたとおり、米国からUNRWAへの援助を一切打ち切りました。

 表面的には、トランプがこれまでの米国の外交政策から大きく舵を切ったように見えるかもしれません。しかし、トランプの方針は、米国が1967年以来50年間にわたって続けてきた二枚舌のふるまいにしっかりと沿っているということを強調しておきたいと思います。米国は、法律上、また政策上、イスラエルの占領に反対すると宣言してきました。しかし他方では、イスラエルに絶対的な軍事・経済・外交支援を続け、イスラエルが入植型植民地主義的侵略を継続できるようサポートしてきたのです。

 今日のトークは3つのパートに分かれています。まず、難民とパレスチナ人の存在そのものをイスラエルがいかにして「安全保障上の脅威」に仕立て上げたか、これを説明するために歴史的文脈を振り返ります。続いて、これまでイスラエルがどのように難民とUNRWAを攻撃してきたかをご説明します。さらにこれをふまえて、トランプ政権がもたらした状況の下での私たちの課題についてお話したいと思います。

「安全保障上の脅威」に仕立て上げられるパレスチナ難民

地図・1947年国連パレスチナ分割案

 イスラエル国家成立の歴史を詳しく振り返ることは、今日はしません。1917年のバルフォア宣言で方針が具体化したところがスタート地点だと申し上げましょうか。かつてオスマン帝国領だったパレスチナはやがて英国の委任統治下に置かれましたが、1947年に国連がこの地を分割し、ユダヤ人とアラブ人、それぞれの国を設立することを提案しました。今日のところはこれを押さえておけば十分でしょう。

 分割が提案された時点で、パレスチナにおけるおおまかな人口比率は、ユダヤ人が30%、パレスチナ人が70%でした。パレスチナ人は分割を拒否しました。パレスチナの地にユダヤ人が存在してはならないと言ったわけではありません。パレスチナ人はユダヤ人に、彼らだけの国家の主権者となるのではなく、むしろ(分割されていない)パレスチナの市民になってほしいと望んだのです。したがって、分割案を実行するには軍事力を用いるしかありませんでした。米国、英国、国連は軍事力の使用に消極的だったため、イスラエルの――あるいはシオニストの――民兵組織が自らの手で武力を用い、イスラエルという国を樹立したのです。

 イスラエルの建国にかかわったシオニズムの指導層は、ユダヤ人が人口上の多数を占めることがイスラエルの存在基盤であると定めました。ベン゠グリオンは人口の80%をユダヤ人が占めるべきだとしました。しかしユダヤ人が30%、パレスチナ人が70%という当時の人口比を考えると、パレスチナ人を追放しない限り、この数字を達成することは不可能です。イスラエルの歴史アーカイブには、シオニズム側の指導者たちがパレスチナ人を追い出すよう指示したという決定的証拠は残されていません。しかし現実には、追放が行われました。

 こちらが分割案です。パレスチナの地の55%がユダヤ国家、45%がアラブ国家になるとされていました。1949年の休戦時には、イスラエルは土地の78%を占拠していました。国連の割り当てより23%も広い面積です。

 イスラエルは1948年5月14日に独立を宣言します。この翌日、アラブ・イスラエル戦争が始まりますが、この時点ですでにシオニスト側によって13回の本格的な軍事作戦が展開され、25万人のパレスチナ人が故郷を追われていました。

 5月15日、ヨルダンとエジプト、シリア、レバノンが建国直後のイスラエルに宣戦布告します。これがアラブ・イスラエル戦争です。戦争状態は1949年3月まで続きました。その中で500のパレスチナの村が破壊され、75万人のパレスチナ人が故郷を追われました。イスラエルは、シオニストの指導層が定義したユダヤ人の人口的優位性を保つために、パレスチナ人の帰還を許しませんでした。

 その後イスラエルは国連加入を申請しますが、拒否されます。国連側が出した条件は、国連総会決議194号に従い、難民を帰還させ、国境を画定し、エルサレムの問題を解決することでした。

 イスラエルはパレスチナ難民の帰還権を拒否しました。難民を帰還させれば国内で戦争を起こされる、イスラエルとアラブ諸国の間に恒久的和平が樹立されない限り帰還は許さない、というのがイスラエルの主張でした[注2]。

[注2] 当時の国連代表アバ・エバンがこの議論を展開した。

 しかし実のところ、ヨルダン、エジプト、シリアはいずれもイスラエルに和平交渉を申し入れていましたが、ベン゠グリオンは、難民の帰還は和平の代償としては大きすぎるとして、これらの申し入れを拒んでいたのでした。

 イスラエルは建国時から、難民の追放を誇るべき業績とみなしてきました。そして建国後は、難民の帰還を国家の破壊に等しいものとみなしました。こうして、難民のイスラエル領内への帰還権は、イスラエル国家の存在の危機、あるいは国家の終焉そのものと同義とされたのです。これは難民が安全保障上の脅威であるからではなく、彼らが領内にいればユダヤ人の人口上の優位性が覆されるからでした。ゆえにイスラエルは、パレスチナ難民を「セキュリティ化」する――すなわち、難民を犯罪的な安全保障上の脅威に仕立て上げる政策をいくつも打ち出しました。

 そういった動きのほんの一部をご紹介します。たとえばイスラエルは緊急事態宣言を発して、イスラエル領内に住まう約16万人のパレスチナ人に軍令を適用し、彼らを軍政下におきました。軍政の目的は、パレスチナ人の移動を制限し、裁判なしの拘留を行い、家屋を破壊し、社会参加や報道の自由を制限すること。そして今後新たな戦争が起こった際、領内に残るパレスチナ人全てを追放できるようにすることでした。

 イスラエルはまた、イスラエルに帰還してくるパレスチナ人の射殺を容認する方針を採用しました。ごく最近、イスラエル軍がガザのパレスチナ人に対してとった方針を思い出された方もおられるでしょう。1948年から1960年の間にかけて、イスラエル軍は徒歩で帰還を試みた非武装の難民3000から5000名を射殺しています。

イスラエルのUNRWAに対する攻撃

 こういった方針はすべて、より大きな枠組みでとらえることができます。イスラエルは、自らの入植型植民地主義のプロジェクトにおいて、入植者の支配権を揺るがぬ形で樹立しようと腐心しているのです。この枠組みになじみの深い方にはピンとくるだろうと思いますが、入植型植民地は――例えば米国やカナダ、オーストラリアのように――フロンティアにおける暴力的対立が抑えられ、私たちがそこに先住民がいる(いた)ことを忘れる時、「成功」するのですから。

 そのためイスラエルは、自らの存在の根幹にかかわる問題となった難民の帰還を許しません。そのうえ国連が難民の帰還を求めてきたことを、イスラエルに対する偏見の表れであり攻撃だとみなしています。

 国連がパレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)を設立した1949年時点では、難民にかかわる国連条約は存在しませんでした。UNRWAは、他の全ての難民の地位を定める1951年の「難民の地位に関する条約」に先立って作られた機関なのです。

 UNRWAはパレスチナ難民をこのように定義しました。「1946年6月1日から1948年5月15日までの間にパレスチナを通常の居住地とし、1948年の紛争の結果として家および生活の手段のいずれをも失った者」。

 UNRWAは西岸地区、ガザ地区、レバノン、シリア、ヨルダンの5地域で活動し、学校702校、医療関係施設143軒、女性センター40軒を運営しています。世界中にいるパレスチナ人は1000万人とされますが、そのうち540万人を占める登録難民を保護するのがUNRWAです。

 イスラエルは、UNRWAの存在こそが問題の根幹だと主張してきました。パレスチナ難民が故郷に帰りたいと言い続けるのは、UNRWAが難民を(難民状態のまま)生活できるよう支え続けているからだというのです。

 イスラエルがUNRWAの攻撃に持ち出してきた議論は他にもあります。たとえば、UNRWAが難民の子孫も「難民」として計上しているのはおかしい、というもの。1948年時点で故郷を後にしたパレスチナ人のうち、現在も生存しているのは5万人。残りの540万人はその子孫でしかない、というのです。

 和平プロセスの交渉過程では、イスラエルは国際社会に頼って難民問題を「解決」しようとしました。イスラエルはパレスチナ難民に対する補償を国際社会に依頼し、自ら奪った土地や家を補償せずにすむよう試みました。また1967年以後のイスラエル領内に残った家族をもつ難民だけに帰還を認めようともしました。

 イスラエルはまた、別の議論も持ち出してきました。曰く、イラクやイラン、シリア、レバノン、イエメン、モロッコ、アルジェリアのユダヤ人もパレスチナ人と同じく難民化してイスラエルにやってきたのであり、中東系ユダヤ人難民を受け入れたことで、出て行ったパレスチナ難民の数と相殺された、と。つまり、この議論は、中東系ユダヤ人を故郷に帰らせろという要求ではありません。「(アラブとユダヤは)お互い様だ」と示唆するための戦略だったのです。

 こういった中、UNRWAを攻撃して潰し、それによってパレスチナ難民問題自体を無化したいイスラエルは、次のような行動をとってきました。

 まずは先に述べたとおり、パレスチナ難民の定義を変えようとしています。1948年にパレスチナを逃れた当人だけが数えられ、その後70年の間に生まれた子孫たちは含まないようにしようとしています。

 しかしUNRWAの「難民」の定義は一般的なのです。世界全体における難民のための機関であるUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)でも、同じ定義が使用されています。子孫も難民に数えられますし、難民状態が長期間に及んでいるアフガニスタンやブルンジ、ソマリア、エリトリア、ブータンなどでも例外ではありません。

 イスラエルはまた、UNHCRは難民を他国に再定住させるがUNRWAはさせない、とも主張してきました。UNHCRがパレスチナ難民を管理していたら、(帰還など主張せず)他のどこかにおとなしく移り住んだだろうに、と言うのです。しかし実際には、UNHCRは今のところ再定住を求める全難民のうち1%足らずしか再定住させることができていません。どこでもいいから再定住したいのにそれが叶わない、というのは近年のシリア難民を見れば明らかでしょう。

 イスラエルはさらに、UNRWAがあるからアラブ諸国はパレスチナ難民が帰還権を主張することを容認するのだ、難民に市民権を与えないレバノン、ヨルダン、シリアなどのアラブ諸国も問題ではないか、と主張してきました。これは事実と大きく異なります。ヨルダンでは、パレスチナ難民に市民権が与えられています。シリアのパレスチナ難民は、選挙権を除いてシリア人と平等の権利を持っていますし、さらに言えば独裁政権下では選挙権があろうがなかろうが実際のところ大差ありません。レバノンはというと、パレスチナ難民は大変ひどい扱いを受けています。イスラエルの主張が正しいのはレバノンについてだけです。

 またイスラエルは、様々な政治的立場のパレスチナ人を広く雇用しているUNRWAを「テロリストを雇用している」とし、腐敗していると非難しています。トランプ政権もこれを理由にして援助の停止を正当化しました。政権がUNRWAへの援助を更新したのはきわめて最近、2017年12月のことだったというのに。また世界銀行は、UNRWAを「グローバルな公共善」と呼んで賞賛しています。

 よって広い視野で見れば、イスラエルのUNRWAに対する攻撃は、イスラエルがパレスチナ問題そのものや、パレスチナ人の存在や、パレスチナ難民の帰還権の主張を無化しようとしてきた歴史にぴったりと位置づけられます。70年にわたる戦争や抑圧や収奪では完遂できなかったその無化の試みを、イスラエルは今、権威による布告という手段で成し遂げようとしています。

求められる未来へのヴィジョン

 では、今後の動きはどうなるのか? イスラエルには現在、これまで自国だけでは成し遂げられなかったことを実現できるようサポートするトランプ政権がついています。トランプ政権は、米国が最も右翼的・レイシスト的・ポピュリスト的な姿で現れたものといえます。これは、イスラエルが同じく最も右翼的・レイシスト的・ポピュリスト的な姿で立ち現れたものであるネタニヤフ政権と噛み合っています。

 そして今、トランプ政権が「世紀の取引」を提示するという話が出ています。この「取引」とは簡単に言えば、パレスチナの服従状態を恒久化するものです。パレスチナ国家もなく、東エルサレムに首都が置かれることもなく、難民の帰還権もなく、移動の自由もなく、ガザはエジプトとパレスチナ自治政府が管理する自由貿易区域になる。

 残念ながら、中東における現状はパレスチナにとってかんばしくありません。アラブ諸国家は普通ならこのような条件を拒否するだろう立場ですが、勢力図が再構成された現在の中東においては、アラブの統一と安定への脅威はもはやイスラエルではなくイランなのです。したがって、現状に光は見えません。1917年、独立国家で主権者となることを思い描けた時代のパレスチナ人が夢見た民族自決の可能性は、今しも潰えようとしています。

 しかしこの物語には別の側面もあります。もはや国家は手に入らないというバッドエンドの裏には、新たな自由の地平、国家という枠組みの外でパレスチナ人が成し遂げうることの可能性が広がっているのです。その新しい枠組みとは何なのか? それは想像と創造の領域です。アクティビストの領域です。芸術家や夢見る人の領域です。思えば、ほとんどの国家が民の期待を裏切ったというのがこの世界の現実なのです。国家は民を守ることができず、植民地支配を振り払いさえすれば手に入ると約束された自由を結局もたらせなかったのですから。

 しかしこういった未来のヴィジョン、自由への夢のきわめて重要な種は、BDS運動の中に存在しているのです。これから至る政治的解決がいかなるものであれ、それは人間の尊厳と平等を前提としたものでなければならないとする、この運動の中に。

 BDS運動には大きな壁が立ちはだかっています。この運動が大きな変化をもたらし、新たなヴィジョンや政治運動のための政治的空間を切り開いたことは間違いありません。しかしこれまでのところ、その空間は、空白のままなのです。この空間に踏み入って、パレスチナ人を新たな時代へ導き、イスラエル人も同じ土地に住んで生きることのできるパレスチナの未来や、パレスチナ人だけでなく世界全体にとってインスピレーションとなるような新しいヴィジョンを作り上げられるだけの力をもったパレスチナの政治運動が存在しません。

 このことが、BDS運動や皆様のようなアクティビストにとって何を意味するのか。BDSとは、必要不十分な運動だということです。しかし、必要であることには疑いの余地がありません。BDSを除くと、今現在パレスチナ人にできることはほとんどないのです。なぜなら、BDS以外の抵抗の方法はすべて犯罪化されるか抹消されてしまいましたから。たとえば武装抵抗は権利であるにもかかわらず、例外なくテロリズム扱いされるようになってしまいました。パレスチナ人が市民ではなく軍隊をターゲットとしている場合であってもです。国際刑事裁判所での法的アプローチも攻撃されています。またご説明したとおり、外交的アプローチも凍結状態です。そのうえ、米国が占めている位置を乗り越えることは未だできていません。

 しかしひとつだけ、イスラエルが米国の力を借りてもなお成し遂げられていないことがあります。それは、パレスチナ人の抵抗の意志を殺すこと。自由を望む心を殺すこと。その自由、尊厳、そして正義のために、パレスチナ人と共に闘おうという世界中の人々の連帯を殺すこと。それだけは、今なおできていないのです。

質疑応答

[質問] アメリカの議会でのBDS運動の犯罪化、罰する法律が通りそうだという話について。それが共和党・民主党ともに巻き込んでいるのか、実際に法律になる可能性があるのかということについて訊きたい。また、こういう動きに立ち向かっていくためには何ができるのか、どのように反論しているのかということについて教えてください。

 反BDS法案は2つのレベルで展開しています。1つは連邦レベル、つまり米国全体でBDSを犯罪化するもの。もう1つは州レベルであり、50州中22州ほどで可決されています[注3]。

[注3] 2020年12月現在で反ボイコット法を可決しているのは30州。

legislation.palestinelegal.org

 州レベルにおける反BDS法は、公的機関との契約に関連しています。ですので、公立学校の先生がBDSに関わったら職がおびやかされる危険があります。州と契約している事業者は、仕事を切られる可能性があります。州レベルではこういった形で作用します。

 連邦レベルでの反BDS法案については、米国の弁護士に言わせれば、合衆国憲法修正第一条違反、すなわち言論の自由のはなはだしい侵害であることは火を見るより明らかです。もし裁判を起こされれば連邦政府側が負けるでしょう。現在、州レベルでは実際に裁判が行われており、アリゾナ州とカンザス州ではすでに州政府側が敗訴しています[注4]。

[注4] 2019年4月、テキサス州連邦裁判所も同様の決定を言い渡した。これらの判決を受け、いずれの州も反BDS法の適用範囲を狭める法改正を行うことで、裁判の継続を阻止する手段を取った(権利侵害を訴えていた原告を法の処罰の対象から外し、請求原因を失わせた)。

 しかし皆様がおそらくご存じのとおり、米国の議会システムは特定の利害関係に縛られています。よって議員たちはしばしば、自身の資金源や再選に向けての道が揺るがないよう、明らかに憲法違反の法案にも賛成票を投じるのです。現在、反BDS法案を率先して推し進めているのは、民主党所属の上院議員2名――ベン・カーディンとチャールズ・“チャック”・シューマーです。民主党は米国における革新政党です。にもかかわらずカーディンとシューマーは、イスラエル・ロビーに属する有権者の歓心を買うために、憲法違反の法案に喜んで賛成しようとしています。

 もうひとつご質問いただいたのは、どうやってこのような動きに反対するのか、ということでした。反対の意思を示すには、法を破ることです。不当な法は歴史上ずっと、破られることによって打ち負かされてきたのですから。人種隔離の時代、黒人は白人専用とされた席に座って法を破りました。BDS法案が通ってもまた、私たちはこれを破ります。そしてそのことで投獄や処罰を受けたとしても、この抑圧的な法の不当性を白日の下にさらすためには当然のことだと捉えるのです。

[質問] BDS運動の対象となっているのは入植地ビジネスに限定されるのでしょうか? BDSの獲得目標が多すぎるように思います。特にパレスチナ難民の帰還権を要求することがフォーカスを外してしまうのではないでしょうか? また入植地で作られたものをボイコットするというように限定した方がより広いサポートを得られるのではないでしょうか?

 このご質問には2つの側面があると思います。まず、パレスチナ人の自由を求める闘いにおいて「範囲を狭めるべき」という提言が何を意味するのか、ということ。そしてもうひとつは、これが戦略的にどのような意味をもつのかということです。

 戦略的な話の方が簡単ですから、こちらから始めましょう。もしターゲットを入植地に絞る方が効果的だと思われるのでしたら、迷わずそうしてください。実際、そのようにターゲットを絞って活動してきたアクティビストは多くいます。最近の例では、ニューヨーク大学の学生たちが、占領に関与している企業だけをターゲットとした投資引揚げ決議を採択しました。また私の知るところでは、BDS Japanも入植地で生産されたワインのボイコット運動をしておられるはずです。ですから、活動を組織するにあたって「入植地だけをターゲットとする」という選択肢は常にあるのです。その方針でどんどん活動してください。効果はあるのですから。誰も「やるな」とは言っていません。

 ですが、この問いのもうひとつの側面――パレスチナ人が描く自由や民族の未来のヴィジョンに何を含めるべきか、含めないかべきかを指図しようとすることには、少し危ういところがあります。パレスチナ人にとっての「自由」の核心とは、家に帰れるようになることです。難民が故郷に戻れることなのです。それが叶わない「解決」は、私たちにとってはありえません。

 そして、確信をもって申し上げますが、「BDS運動は反ユダヤ主義的だ」という主張が出るのは、パレスチナ人が帰還権を要求しているからではありません。彼らの主張は、パレスチナ人がどのような形で抗議しても同じなのですが、イスラエルに対する抗議は何であれユダヤ人への攻撃だというものです。これは大きな問題です。パレスチナ人がガザでデモをしたら「反ユダヤ主義」。パレスチナ人のデモは安全保障上の脅威扱いになります。自由船団を組織してガザの封鎖を破ろうとしても「反ユダヤ主義」。ファンドレイジングも「反ユダヤ主義」。よって、BDSが「脅威」と眼差される原因は、この運動のディテールにあるわけではありません。そもそもパレスチナ人が抗議すること、我々は存在するのだと主張すること、それ自体がイスラエルにとって脅威なのです。

[質問] BDS以外の方法はあるでしょうか? 他の解決策の可能性はないのでしょうか?

 先ほども申し上げたとおり、これまでのパレスチナ人による抵抗の構想はほとんどが攻撃の対象となりました。たとえば武装闘争は、軍事施設をターゲットとする限り現在でも国際的に認められる権利であるにもかかわらず、潰されました。法的手段も潰されてきました。外交的手段も行き止まりです。BDSは必要であり、それでいて不十分な運動なのだと申し上げたのはこういうわけです。

 だとしても、関わっていく方法は他にもたくさんあります。皆様にはきっとそれぞれに興味関心がおありだと思います。ですから、たとえば日本のメディアに働きかけをしてもいいでしょう。パレスチナの伝統舞踊ダブケの舞踊団や子どもたちの合唱団を日本に呼ぶなどの形で、文化的つながりを促進するのもいいでしょう。東京とヘブロンの間に姉妹都市関係を結ぶことだってできます。つまるところ、BDSは要請されているキャンペーンではありますが、「パレスチナ人に尊厳、正義、自由を」というメッセージを広める方法は、他にもたくさんあるのです。

[質問] パレスチナ解放がアラブの大義として掲げられてきましたが、今はイランの動きがあり、様子が変わりつつあります。こうした動きをどう思いますか?

 とてもいい質問ですね。今日の中東地域の現実を反映していると思います。その「現実」とは何か。これまで米国は、石油や貿易ルートなどの重要な地政学的リソースへのアクセス確保や、中東地域に軍事基盤を築くための駐留継続といった自国の利益を念頭に、アラブ・ブロックの共同体を分断しようとしてきました。

 アラブ・ブロックが分裂し始めるのは1973年の第四次中東戦争後、ヘンリー・キッシンジャーが中東和平問題へのアプローチとしてアラブ諸国のそれぞれと個別に二国間交渉を始め、PLOを排除してからです。

 その後1979年になって、エジプトが、パレスチナ側と協働することもなく、パレスチナ問題の解決も棚上げした状態でイスラエルと平和条約を結びました。続いてオスロ合意後の1994年には、ヨルダンもイスラエルと和平条約を締結し、キッシンジャーのヴィジョンを現実のものとしました。

 次の重要な転機は2003年に訪れます。この年、イラクに2度目の攻撃を加えた米国は、またしても中東の勢力図を組み替え、中東における米国のプレゼンスを支持する君主国家や保守国家を中心とした国々と、反帝国主義的枠組みからこれに反対する国々とに分断しました。

 イラク戦争後、ISIS(イスラーム国)の隆盛からシリアにおける内戦と地域の代理戦争にいたるまで、様々な歴史的展開が続きましたが、その中で私たちが今目にしている新たな勢力図においては、イランとサウジアラビアの間の覇権争いが緊張をもたらす主要因となっています。

 この文脈においてパレスチナ問題は、(イランとサウジアラビアの)地域内対立に包摂されてしまいました。パレスチナ問題はもはや、パレスチナだけの問題ではなくなったのです。サウジアラビア・UAE(アラブ首長国連邦)・エジプトブロックの一部となったファタハが争点であり、シリア・イラン・ヒズボッラーブロックの一部であるハマースもまた争点なのです。そして残念ながら、イスラエルはもはや(中東情勢を扱う際の)最重要ターゲットとは見なされなくなりました。今や争点は、中東地域におけるこういった利害関係です。そしてこの利害関係がパレスチナ問題を定義するがゆえに、現在の構造を乗り越えることが非常に難しくなっているのです。

 このことは当然ながら、人々にも影響をもたらしています。もちろん人々と政府はイコールではないのですが。そして率直に申し上げて、ここから先に進んで現状を乗り越えられるかどうかは、パレスチナの指導者たちとパレスチナの人々が、アラブ世界をどう引っ張っていくかにかかっていると思います。

[質問] イスラエルが犯している犯罪から注意をそらしたり、それを責める声をふさぐために、犠牲者としてのユダヤ人とイスラエルとを混同させるような言説がありますが、これに対してどのように反対していけばよいでしょうか?

 シンプルに言えば、共感と愛を通して応答することになります。パレスチナの未来を探すこととは、ユダヤ人の存在を否定することではありませんから。むしろ、一民族だけでなくあらゆる人々を包摂する解決を見つけることなのです。

 ここで問われているようなイスラエルの戦略には、国家を求めるナショナリズムの運動であるシオニズムと、宗教であるユダヤ教をいっしょくたにしようとする側面があると思います。反ユダヤ主義が実際に人々を暴力や危険に晒しているこの世界において、イスラエルはユダヤ人を守ると言って、シオニズムとユダヤ教をごっちゃにしてきました。ごく最近にも米国で、ピッツバーグのシナゴーグに集っていたユダヤ人が殺害される事件がありました[注5]。ですから私たちに求められているのは、反ユダヤ主義と闘い、それと同時に「国家建設こそが反ユダヤ主義と闘う方法である」という発想を拒否することです。

[注5] 2018年10月27日、ペンシルベニア州ピッツバーグのシナゴーグに白人の男が侵入し、銃を乱射して11人を殺害した事件。

 しかしイスラエルの戦略の成功は同時に、パレスチナ人の非人間化をも前提としています。イスラエルはパレスチナ人を、他のあらゆる民族と同様に自由を求めて戦う人間としてではなく、憎悪に駆り立てられて戦争を望む非人間として描き出しています。こういった言説はレイシズムであると同時に、イスラモフォビア(イスラーム嫌悪)でもあります。パレスチナ人の闘いを、ムスリムがユダヤ教徒に対して敵対感情を持っているとして描くのですから。

 ですから、イスラエルの戦略に対するベストな応答というのは、共感と愛をもって応えるだけでなく、パレスチナの闘いは自由と人権を求める闘いなのだということを強調していくことだと思います。そして、パレスチナの解放はすなわちすべての人々の解放なのだと伝えること。パレスチナ人が自由を得ても、他の誰かの自由が制限されるわけではありません。

[質問] 私の研究関心のひとつは、イスラエル/パレスチナにおける人権と平和構築の統合です。ですので大変興味深くお話を伺いました。ありがとうございます。お尋ねしたいのは、あなたにとって正義ある平和のヴィジョンとはどのようなものかということ。そしてそのヴィジョンが、BDSや話題に上がっていた他のイニシアチブが目指す人権を掲げたゴールにどうつながっているのかということです。

 まず1917年以降、パレスチナ問題の解決策として語られてきたのは、3つの政治的解決策のみでした。まずは分割。続いて二国家解決案。最後にバイナショナリズムまたは連邦制をとった一国家解決案。これらがパレスチナ問題解決の指針となってきた3つの政治的オプションです。過去100年間、これを政治的問題として解決しようとするコミットメントが続いてきましたが、結局は袋小路に陥っています。

 思うに、「パレスチナ問題を解決する」とは、何らかの政治的結果を打ち立てることではなく、新たな問いを立てることによって新たな可能性をもたらすことではないでしょうか。先ほど述べた3つの解決策は全て「ユダヤ人シオニストがいかにして主権を手に入れ、また維持するか」という問いに答えることを前提としていました。私が提案したいのは、違う問いを立てよう、ということです。「主権を維持するにはどうするか」ではなく、「誰もが支配せずとも帰属できる可能性をつくりだすにはどうするか」。「支配」とはすなわち主権と統治の問題ですが、「帰属」に枠組みはありません。むしろ現行秩序の枠組みを外れた、人権に基づいた解決といえます。

 こういうことを考えるのなら、ゴールからさかのぼってみてもいいでしょう。つまり――今、全員で考えてほしいのですが――540万人のパレスチナ難民が故郷の地に帰ってきたと想像してみてください。ここで問題となるのは、この新たな社会をまとめあげるにあたって最も良い方法とは何か、ということです。これはパレスチナ人とユダヤ人をまとめるだけでなく、階級間格差をいかに再編するかを考えることでもあります。ジェンダー間の関係の再編や、社会において望ましいとされる人間像を再考することでもあります。健常者と障がい者がその一例でしょう。こういった問いこそが、最も実りある可能性のひとつだと考えます。そしてBDSのすばらしさは、新たな社会のヴィジョンを描くためのステップを与えてくれるところにあるのです。

反アパルトヘイト運動とボイコット

勝俣誠
明治学院大学名誉教授。専門は、開発経済学・アフリカ地域研究。反アパルトヘイト運動や西サハラ解放運動の支援等、第三世界との草の根の連帯運動に積極的に参加。著書に『娘と話す世界の貧困と格差ってなに?』(2016年)、『新・現代アフリカ入門』(2013年)、『アフリカは本当に貧しいのか―西アフリカで考えたこと』(1993年)など。

BDS japan 発足集会「あなたにもできる!イスラエル・ボイコット」 2018年12月16日 於・在日本韓国YMCA

 皆さん、こんにちは。わたくしはアフリカ地域を主として政治経済学のアプローチから研究し、その大学教育にも携わってきました。今日は、「BDSジャパン発足集会」の日本からの講演者としての役割を引き受け、皆様の前でこうして立っている理由を3つほど挙げさせていただきます。

 まずは、わたくしの半世紀にわたるパレスチナ・イスラエル問題との出会いです。二十歳だった1967年の初夏、わたくしは大学の友人と二人で当時の西ドイツで中古車を買い、ユーラシア大陸横断の旅に出ました。北ヨーロッパからユーゴスラビアやアフガニスタンを経てインドのカルカッタ(現コルカタ)まで中古車で横断する予定でした。しかし、おりからの第三次中東戦争(1967年6月5日~10日)と呼ばれるイスラエル軍のエジプト、ヨルダン、シリア攻撃が行われ、中東情勢が危ぶまれるようになり、結局、わたくしたちはユーゴで引き返すことになりました。

 わたくしはこの戦争の背景をよく知りませんでした。ドイツを横断中の5月10日の日記では次のように書かれていました。「フランクフルトを訪れた時、資金カンパをしていた日本航空事務所前の学生が『祖国が心配だが、イスラエル軍は勝っているから大丈夫』と笑いながら言ったことばを思い出し、戦争ともなれば、学生も反戦よりも愛国者になってしまうのは当たり前なのかと思った。あの快活なユダヤ人学生の笑いは、昨日テレビで見たアラブ人の戦死者のイメージの中で何か不気味な気がした・・・」と。

 他方、フランクフルトの駐車場で出会ったことも今も覚えています。おそらく私たちの車のドアに「ハンブルグ->カーブル->東京」と記載されていたから私たちがこれから中東に行くと思ったのでしょう。アラブ人の若者数人が、わたくしたちにアラブ側に着くように話しかけてきました。わたくしは戸惑いました。なぜなら、日本で1960年代初頭に上映された、ホローコーストを逃れたユダヤ人によるイスラエルの建国への道のりをとりあげた「栄光への脱出」という映画に、わたくしは迫害された民の戦いとして何となくシンパシーを感じていたからです。

 そして1968年。やはり夏に、今度はフランスを訪れることになり、初めてイスラエルの占領をめぐって、占領に反対するアラブ諸国の学生と占領を支持する学生たちの間の対立をパリの国際学生会館寮で目の当たりにし、初めて、この地域におけるパレスチナ人の置かれた状況を発見することになりました。

 以降、わたくしは様々な機会で、ますます強大、大胆化するイスラエルの拡張政策とそのもとで確実に弱体化され、尊厳を奪われていくパレスチナ人の行く末を知るにつれ、怒りを感じてきました。そしてヨーロッパや日本を含めたアジア諸国の不作為ないし消極的スタンス、薄氷を踏むように築かれてきた妥協プランすら否定する米国の現政権によって維持・強化される双方の間の気の遠くなるようの非対称性を前にわたくしはしばしば無力感に捉われてきました。

 そんな中で、パレスチナの人々が置かれている状況を研究し、わたくしと同じように懸念を抱いている日本の研究者やジャーナリストの方々にお会いし、今日のBDS運動の存在を知ることができました、かくしてわたくしは、せめて自分一人でも、そして極めてささやかかもしれないができることに賛同して今日ここに来ました。

 そして、中東問題の歴史家でも専門家でもないわたくしがあえて引き受けたもう一つの理由はイスラエル入植地建設のために林立している壁の存在です。壁とは人々のコミュニケーション、対話、行きかう人々とのあいさつの拒否です。かつて一研究者として、また一市民として南アフリカでの反差別運動にかかわりあったわたくしとしては、この壁の存在は1994年の全人種が参加する選挙によってつくられた新生南アフリカまで続いたアパルトヘイト政策を想起せざるを得ません。

 こうした問題意識から今日は反アパルトヘイト運動の学びとささやかな経験をお話しして、BDS運動の意義を考えたいと思います。

 まずアパルトヘイト体制の本質とは何でしょうか? それは一つの経済と軍事で圧倒的な力を持つ集団が、もう一つの集団に対して、その行使の正当性の根拠がないままずるずると自己の特権と維持・拡大する国家総体制です。

 その特徴とは何か。3つ上げることができます。まず第1は、他者を同じ対等の人間としてみるのではなく、もっぱら自分たちの利益のために利用するか、排除の対象としか位置づけない思想に立っていたことです。実際、アフリカ諸国が独立に際して制定する憲法には必ず人権条項がありますが、アパルトヘイト下の1983年の南アフリカ共和国の憲法には「アフリカ人の名もなければ、人権条項もない」(中原精一、『アフリカ憲法の研究』成文堂、1996年、224ページ)という奇妙なものでした。

 第2に挙げられるのは今言った相手を尊厳ある人間として認めない排除思想からくる差別による経済的メリットです。アパルトヘイト体制下の黒人はもっぱら安価な労働力としてみなされ、生身の人間として過ごす生活の場は、黒人のみのバンツースタンないしホームランドと呼ばれる居留地に押し込めることによって労働力の再生産コストは黒人側に負担され、労働力だけ白人側が安く利用できるという仕組みです。このような出稼ぎ労働型経済は著しい人種間の格差を生みます。

 そして3つ目に、日頃アパルトヘイト体制がおかしいと思っている市民、教員、知識人が白人社会にいながら、はっきりと声を上げ市民として行動する力が不十分のため、この体制をずるずると維持させる結果を生んできたことです。

 かつては黒人意識運動を手掛けた1977年に南ア当局によって残酷な殺され方をしたスチーブ・ビコは、すでに1970年代、アパルトヘイト体制に対する批判を持つ白人知識人層が具体的な政治的行動表明となると逃げてしまう体制内知識人の特質ないし限界を見抜きました。

 結局、経済的に居ごこちのいい体制の下で、黒人とはかけ離れた生活水準を受容することを可能にするこうした特権白人層によって支えられたアパルトヘイト体制は、東西冷戦下の西側の及び腰も手伝い、きわめて強固なものに見えました。したがって、きわめて巧妙にデザインされたいわば差別政治経済システムの恩恵を受けている人々に、アパルトヘイトは「人道に対する罪」だと訴えたところ、単なる海外からのいわれなき「南アフリカバッシング」にしか捉えられないという無力感がありました。

 アパルトヘイト体制を支える人々、とりわけその指導層に対して差別を撤廃するようはっきりとメッセージを伝えることができるのかという問いがますます強くなりました。(拙稿、「限界にきた南アのアパルトヘイト-日本は国連型の全面制裁を」、『週刊エコノミスト』、1986年8月12日号、及び「経済制裁は有効である」、『世界』、1988年9月号)

 これが南アフリカに対する経済制裁有効論です。国際社会において、南アフリカに対する貿易、文化、スポーツ交流のボイコットは国連総会や市民運動によって既に1960年代から打ち出されていました。しかし、日本政府を含めて実効性を追求するというよりも国際世論をかわすために形式的に実施するスタンスが続いていました。すなわち、アパルトヘイトに反対する声明を出し、実効性の薄いボイコット措置をとるとともに、他方では、南アとの経済活動はしっかりと維持するという極めてあいまいなものでした。

 対南ア制裁が実効性を求めて本格化したのは1980年代です。国際社会の反アパルトヘイト運動の高まりの中で、国連の安保理が動き出し、南アの主要な経済パートナーの欧米日の政府も制裁を強化せざるを得なくなりました。とりわけ、1986年は日本にとって大きな節目になりました。この年、南ア国内で黒人による広範な反政府運動が高まり、それを抑えきれず南ア政府は全土に非常事態宣言を出しました。米国は南アの白人政権を反共の前線として擁護しようとするレーガン大統領の時代ですが、超党派の黒人議員を中心にきわめて強力な包括的反アパルトヘイト法を通します。この法案に対してレーガン大統領は拒否権を発動しますが、上院下院3分の2の投票で覆されたのです。

 この背景には、南ア政府にはっきりと差別政策をやめなさいという米国政府のメッセージが口先だけだということに我慢できなくなった市民社会が決定的な役割を果たしました。保守的といわれる週刊誌「タイム」さえ、経済制裁の実施に対し、「もし反対だったら、どうやって? もしするとしたら、いつ?」という政府の中途半端なスタンスを批判しました。

日本での3つの対南アフリカ制裁有効論

 日本の市民社会や労働組合による対南ア制裁の声が一層高まっていきます。今思うに、3つあったとわたくしは思います。

 一つは、アパルトヘイト体制にこうして日々向かう南アの黒人勢力が、経済制裁によって自分たちは苦しむことはあるが、あえて撤廃まで我慢するという声に日本の市民が連帯することでした。第2に、南ア当局とその企業に日本の市民はこうした状況は受け入れられないとシグナルを送ることでした。3つ目は日本の企業も倫理的に許せないビジネスから手を引くよう呼びかけようとするものでした。今風で言えば「ビジネスと倫理」ないし「ESG、環境・社会・ガバナンス」投資です。

 なかでも、南アフリカ不当占領していた隣国のナミビアから日本の電力会社が国連安保理の輸入禁止決議にもかかわらずウラニウムを輸入していた事実を国連の場で告発した北沢洋子さんの行動は、特記に値しました。彼女は1980年「国連ナミビア理事会ウラン問題公聴会」で、この日本企業による違法ウラン密輸をはっきりと報告したのです。この時代アジア・アフリカの脱植民地化運動を戦ってきたアフリカのリーダーたちに「ヨーコ」と呼ばれていました。日本について自動車や電化製品の名前しか知らない国際社会で、日本にもアフリカ人の人権を正面から考える市民が存在していることを世界に知らしめた一つの出来事でした。

3つに分けられる制裁反対論

 1980年代の制裁強化には、日本国内では当然反論がありました。一つは、日本だけしても、他国が抜け駆けをして実効性がないというものでした。制裁無効論です。もう一つは、すでに南ア当局もそれなりに黒人の生活向上に努力しているのだから、黒人向けの福祉支援などで少しずつ内側から変えればいいという反論です。段階的変革期待論です。3つ目は、南アは希少金属など日本経済にとって不可欠な資源があり、そもそも経済制裁は自由貿易の原則に反するのではないかという国益論でした。

これらの説に対する反論

 第1の制裁無効論は、欧米日が本気で制裁に取り組めば、これらの先進国経済に大きく依存する南アのような中進国は多少抜け駆けがあっても、致命的な影響力を及ぼせることは明らかでした。米国の1986年の包括制裁法は、抜け駆けする第三国も制裁対象にするという条文が入っていました。

 第2の段階的変革期待論は、反アパルトヘイト運動で黒人が求めてきたのは、一人一票という政治的権利であり、アパルトヘイト体制下の経済成長のおこぼれではありませんでした。人間の尊厳を市民として保障するには、政治参加以外にないという原則が無視されていました。

 そして3番目の国益論は、自国の経済的利益のためならどんなビジネスも正当化できるのかという倫理的破綻を意味していました。

 1980年代の反アパルトヘイト運動の国内的、国際的未曾有の高まりの中で、結局、アパルトヘイトを支えてきた法律は徐々に撤廃に追い込まれ、1990年にマンデラ氏が27年間の獄中生活から自由になるなど、政治的自由化が開始されます。そして1994年皆さんもご存知の通り、全人民が政治的権利を行使する一人1票で新生南アフリカが生まれます。

 では、今日のBDSのキャンペーンを念頭において、この反アパルトヘイトボイコット運動はどんな役割を果たしたのでしょうか。わたくしなりに振り返ってみると、アパルトヘイト体制撤廃を可能にした要因は冷戦構造が崩壊し、南アがもはや反共の砦論を西側に主張できなくなった地政学上の変化を超えて、いくつかの要因があって、それらが相乗的に作用して実現したと思います。

アパルトヘイトをなくした4つのチカラ

 単純化を覚悟で1990年代末の冷戦終焉ムードを踏まえながら4つぐらいにまとめてみます。

 第1に何よりもまず南ア国内の黒人運動、それに連帯したカラード、白人の多様な市民勢力です。

 第2に、南ア軍の越境攻撃にも耐えて国外で活動した反アパルトヘイト組織を支援した近隣諸国、エジプト、アルジェリアなどアラブ諸国などです。

 第3に国連です。アジア・アフリカ諸国が一国一票で参加できる国連総会、平和文化のために作られた国連専門機関のユネスコ、経済制裁など法的拘束力を持って決められる安全保障理事会などです。第2次世界大戦後、国際平和のために創設された国連がやはり大きな役割を果たしたのです。

 と同時に、4番目にこれらの国連を動かした各国内の市民運動です。どう見てもこの国の人種差別は許せないと、あらゆる差別なき世界を夢みて、あえて声を上げた世界中のただの市民です。これらの人々はアパルトヘイトに加担する自国政府や国連にも働きかけました。

 したがって、今日の課題である非人道的なイスラエルのパレスチナ人政策を変えさせるツールとしての制裁運動は、今見た南アの文脈では確かに万能で唯一ではありませんでした。当局に再考を迫り、白人市民が考え始めたのは、複数の内外の要因の相乗作用が働いたからだと思います。また、国際関係における制裁論は、その対象国の人々へのインパクト、実効性などその時々の文脈において論議する必要があります。

BDS運動に示唆できること

 では、今回のBDS運動について南アの反アパルトヘイト制裁の経験からどんなことが示唆できるのでしょうか。

 確かに、アパルトヘイト時代の南アと今日のイスラエルとの間には歴史的、政治的、経済的、社会的、文化的な様々な相違が存在します。しかしまた、こうした相違を超えて人間の尊厳をシステムとして貶める暴力の性格には類似点を見出さざるを得ません。

 まずは、国際法と国連決議の無視です。第2次世界大戦後、国際紛争を武力によってではなく、話し合いによって解決するために国際ルールが強化されました。アパルトヘイト体制については、「アパルトヘイト犯罪の抑圧及び処罰に関する国際条約」として、1973年に国連総会で採択され、1976年に効力が発生しています。しかし南ア白人政府はこうした国際的取り決めを一切無視して、20年近くアパルトヘイト体制は延命しました。

 イスラエルの東エルサレムを含むヨルダン川西岸での壁の建設は違法であるとした2004年の国際司法裁判所の勧告的意見、そしてそれを踏まえた国連総会の決議もイスラエル当局によってことごとく無視されています。

 そして壁です。実際、アパルトヘイト体制の象徴は人種の間に打ち立てられた地理的でかつ心の中に潜む壁でした。南アのヨハネスブルグに建てられたアパルトヘイト・ミュージアムの入り口は壁を隔てて2つの入口が設けられています。白人の入口と非白人の入口です。ランダムに振り分けられるのですが、黒人コースに選ばれるとどんな扱いを受けたか、働き方をしたかなど白人世界を横目に、一目でわかるような展示コースとなっています。入口が違うとこうも一人の人間の運命は異なるのかを教えてくれるコンセプトでした。

 翻ってイスラエルの占領地。フランスのチーズのグリュエールないしスイスのエマンタールのように、占領地のところどころに穴があって、その穴がパレスチナ人居住地となっていて、壁がどんどん作られています。

 イスラエルの占領地とアパルトヘイト時代の黒人居住地域の地図は似ています。これはどう見ても植民地状況です。そこで、わたくしは一つの素朴な疑問を持ちます。最終的にはいったい壁はだれを、そして何を守るのだろうか、という問いです。壁を作る側なのか、壁を高くされる側なのだろうか。そしてそもそも何を守りたいのか? 壁を作る側はこれで自分たちは安全を確保できるなどと考えます。高くすれば高くするほど自分たちの安全は高まるのでしょうか? 他者の存存を体系的に否定することによって自分たちの安心が実現するのでしょうか?

 南アの場合、アパルトヘイト末期には白人層の中からも、壁によって常に隔てられる南アフリカで、いつまでも自分たちは安心して暮らせるのだろうかという問いかけが顕在化します。黒人とともに差別なき国を一緒につくろうという白人が声を上げだします。例えば、キリスト教会がそうでした。アパルトヘイト体制を支えてきた中心的白人エスニシティーのアフリカーンスの中にも差別は聖書に反するとして黒人居住区の教会に移った造反牧師さんも登場しました。1985年、南アのキリスト教徒の黒人のみならず、カラード、白人も加わった有志は、「時は満ちた、真理の時が来た。南アフリカの土台は今や危機的状況にある」として、差別を正当化してきた国家信教(State Theology)を批判します。これは先に述べた1983年の南ア憲法に対する挑戦でした。

 ユダヤ教内部でも、イスラムの政策はその教えに反しているのではないかと正面から現政権を批判しているユダヤ教信者も国内外にいます。実際、世界ユダヤ人教会のロナルド・ローダー議長は、現政権をユダヤ主義に反するとし、こうした事態が続くならば、ユダヤ人の若者たちは、非正統派のユダヤ人、マイノリティーの非ユダヤ人そしてLGBT社会の人々を差別するようなこうした国の国民であることを拒否するかもしれないと警告を発しています[注6]。

[注6] Israel, This Is Not Who We Are

 では、当時の南ア国内の白人はどうだったのでしょうか。自分たちは祖先からして南アの地に神の恵みとして住み続けると主張する白人至上主義者や、アパルトヘイト体制下でそれなりの生活ができて政治に関心のない白人たちを除いて、アパルトヘイト体制を日頃よくないと批判してきた高等教育を受けた白人層、とりわけ知識人層はどうだったのでしょうか。

 かつてわたくしが1980年代、西アフリカの大学にいたころのことです。教材の印刷用紙が事欠くほどのないないづくしの学部運営でした。教員の研究費も皆無でした。これに対しておそらく他のブラック・アフリカの大学の比較にならないほどの多くの予算と研究者を抱えたアパルトヘイト体制下の南アの大学や研究所やフリーメディアから体制批判が発信されながら、白人政権はながながと差別体制を維持できたか不思議に思っていました。

 アパルトヘイト体制はよくないと思っているが、いざ具体的な黒人の権利の擁護策となると、いろいろ理由をつけて後ずさりをしてしまう白人層の存在なくして、アパルトヘイト体制は内側から維持されないのではないかとわたくしは考えるに至りました。

 このことを最も明確に教えてくれたのは、黒人たちこそ反アパルトヘイトの主人公となるとして1970年代から本格的に広がった黒人意識運動(BCM)です。この運動は、黒人たちを南ア国土の13%の土地にバンツースタンと呼ばれる黒人独立国として押し込める政策に強固に反対してきました。

 たとえば、白人ジャーナリズムは、リベラルな様相をまとって、バンツースタン内で黒人は自由に白人政府批判ができるといって、バンツースタン政策を黙認したり、南ア問題の核心は人種問題ではなく、階級闘争であるといって、当面の焦点をずらしたり、具体的な行動を先延ばしにしてきました。白人リベラルこそ、結果として、体制変革を引き延ばしにしている体制擁護勢力ではないかとして見抜いています(スチーブ・ビコ、峯陽一ほか訳、『俺は書きたいことを書く―黒人意識運動の思想』、現代企画室、1988年)

 この点に関して、イスラエルの国内政治において現政権は数議席の差で過半数を保っています。野党、とりわけリベラル層がこの国の自由なメディアとともにどれほど具体的な反入植政策を打ち出せるか、すなわち、今の状況はよくないが、いざ、それを打開する具体的行動となると様々な理由をつけて延期したり、現状を黙認してしまう南ア型白人リベラルの事なかれ主義を避けることです。

 今までアパルトヘイト体制下の本質は何か、それをなくすためにどんな非暴力手段が可能だったか、そして、今日のイスラエルによる植民地化問題とどんな共通点が見いだされるかをお話してきました。最後に、わたくしたち日本の市民ができることとしてBDS運動がいま、なぜとても重要かをお話しておきたいと思います。

 まず、BDS運動はイスラエルによる非人間的行為に対して「わたくしたちはこうしたことは受け入れられない」と表明できる、わたくしたちが行使できる数少ない非暴力的手段であるからです。この運動によって直ちに政策が変更されることは期待できません。しかし、イスラエル現政権に対してだけでなく、イスラエルの非人間的政策を暗黙のうちにも受け入れている人々や企業に対して、自分たちが支えている体制は実は誰もが誇りをもって生きられる持続可能な世界の基本原理とは相いれないことを気づかせるきっかけになることです。とりわけ、グローバル化などにおいて企業はいつの時代にもまして、自らのビジネスが人権を尊重するのか、逆に人権を結果として侵害しているのかという倫理的自己点検が求められています。

 また、消費者としても自分の購入する商品やサービスは、自分の良心に照らし合わせ、無関心によって買ってしまうのではなく、買うことによってどんな世界を黙認するのかというイマジネーションが問われると思います。

 さらにわたくしはこの運動は、国際法や国連の諸原則を無視した、自国ファーストの国際対立の暴走をとどまらせ、武力によらない2度にわたる世界大戦の反省から生まれた国際協調主義と一致していると考えます。周知のごとく日本国憲法前文は、わたくしたちは恐怖と貧困のない世界を実現するために、自国のことばかり考えてはいけないという国際協力主義をはっきりとうたっています(アラビア語と中国語の前文訳あり)[注7]。

[注7] 日本国宪法 / Al-Arab News

 この国連主義といってもいい基本的な国の形は、わたくしは日本が世界にもっともっと誇りをもって発信していい外交アセット、資産と思っています。

 この意味で、BDS運動は、このような他者の尊厳を踏みにじってしか持続できない植民地的体制を世界は許さないという日本からのメッセージとして優れて高度の規範性ないし倫理性を持っているものと思っています。

 2017年12月6日、米国のトランプ大統領は、国連決議と国内外の反対の声を無視し、エルサレムをイスラエルの首都として認定する宣言をし、大使館のテルアビブからの移転プロセスを支持しました。国連総会は同年12月8日、毎年5月16日を「仲良く一緒に平和に暮らす国際デー」とする決議をコンセンサス方式で採決しました[注8]。

[注8] The UN General-Assembly, in its resolution 72/130, declared 16 May the International Day of Living Together in Peace, as a means of regularly mobilizing the efforts of the international community to promote peace, tolerance, inclusion, understanding and solidarity. International Day of Living Together in Peace

 BDS運動を通じ、こうした国際平和の脅威ないし挑発行為にたいして、非暴力的な手段によってどうみてもおかしいと意思表示することこそがわたくしたちができるアクションと信じます。

追記(2020年12月23日)

 トランプ政権下でのイスラエルの政権を梃子にしたイラン封じ込め政策は2020年12月10日にはモロッコ王国とイスラエルとの国交正常化と引き換えに、モロッコが安保理決議を無視して不法に占領・入植している西サハラに対する主権を米国が認める宣言をするに至った。しかし国連は従来通り1991年のモロッコと西サハラのポリサリオ戦線との間での住民投票の実施を目的とする停戦合意に基づいて活動すると表明している。したがって、西サハラ領内でのモロッコによる鉱物資源や海産資源(特にタコとマグロ)の日本への輸入は国際法から違法となる。また本発表で言及したESG投資原則とも抵触すると考えられる。